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解脱上人とその一族

この解脱上人といふ方は勿論御本人は非常に高徳の方でありますが、
併し不思議なことには、単に解脱上人お一人でなく、解脱上人の一家といふものは、当時に於ては天才揃ひと言つてよい家柄であります。
(内藤湖南「解脱上人の出られた家柄」『先哲の学問』筑摩書房1987)

 これは、戦前の偉大な歴史学者である内藤湖南が、解脱上人とその一族を評した言葉である。内藤湖南(慶応二年(1866)〜昭和九年(1934))は秋田県生まれで、大阪朝日新聞などの編集や論説で活躍したのち、京都帝国大学史学科の教授として東洋史学の教鞭を執った人物である。大正一五年(1926)の定年退官後から昭和九年六月二六日に死去するまで、京都府相楽郡瓶原村(今の京都府木津川市加茂町)にある恭仁山荘に隠棲していた。つまり湖南は、晩年を、ここ普陀落山海山住寺の門前にて過ごしていたのである。 今回は、東洋史学の泰斗であり、海住山寺とゆかりのある内藤湖南の論考に導かれつつ、海住山寺中興第一世の解脱上人を中心として、上人とその一族の事跡について見ていきたい。
 解脱上人こと解脱房貞慶((久寿二(1155)〜建暦三(1213)年二月三日)以下、貞慶と略称)は、久寿二年(1155)五月二一日に藤原貞憲の息として誕生した。貞慶は鎌倉時代初期を代表する興福寺の学僧であり、後鳥羽上皇をはじめとする数多の貴顕から帰依を受けた。祖父は、かの有名な信西入道通憲である。通憲は当代一流の碩学と謳われた学者であり、鳥羽法皇の側近として政治に大きな力を発揮した。鳥羽法皇の没後、通憲らに擁された後白河天皇は、対立していた崇徳上皇や左大臣頼長らを保元の乱(保元元年(1156))によって一掃し、後白河親政を開始した。乱の後、通憲は様々な国政改革を立案・推進し、またその息である俊憲・貞憲は弁官として実務を担い、成憲・脩憲は遠江・美濃の受領として地方自治を請け負った。しかし、通憲一族による政治主導に対する反発から、通憲は平治の乱(平治元年(1159))によって殺害され、一族は一時全国へと配流されることとなる。父貞憲も土佐国へと流されることになる。
 このような中、応保二年(1162)、八才の貞慶は南都へと向かい、興福寺に入寺、永万元年(1165)東大寺戒壇院にて出家受戒した。叔父の覚憲に付き従い仏教教学を、特に法相・律を軸として修学求道した。寿永元年(1182)二八才のときに学僧としての登竜門である興福寺維摩会で竪義を遂行、文治二年(1186)には維摩会講師を勤仕し、学僧としての将来を嘱望されるにいたった。一族には貞慶の他にも優れた学僧が多く、叔父には、彼を学僧として育てたのち文治五年(1189年)に興福寺別当となった覚憲のほか、高野山に止住し遁世僧として発心堅固であった明遍、真言宗小野流の本拠地である醍醐寺の座主となった勝賢、唱導安居院流の祖となった澄憲らがいた。また従兄弟にも、覚憲から二〇年ほど後に興福寺別当となった俊憲息信憲、法然とも交流のあった澄憲の息聖覚らがいた。
 以上のように貞慶一族は、内藤湖南をして「天才揃いと言って良い家柄」と言わしめるほど、時代の政治や社会・文化を牽引した政治家や学者・学僧を多く輩出した一族であった。
 建久三年(1192)、貞慶は春日明神の夢告により、興福寺を出で笠置寺へと隠遁した。貞慶は法相教学と戒律を重んじていたため、当時の仏教界や寺院生活に批判的だったのであろう。そして承元二年(1208)、貞慶は笠置寺から海住山寺へと移り住み、保延三年(1137)の火災により焼失していた海住山寺伽藍の復興を推し進めていったのである。また、貞慶が法相と律を学んだ覚憲は、戒律の復興に努めた中ノ川成真院実範の弟子蔵俊の門弟であった。貞慶に伝えられたこの律の教えは、復興なった海住山寺にて学んだ弟子の慈心房覚真や孫弟子の西大寺叡尊・唐招提寺覚盛らによって次代に大きく開花する。海住山寺を中心とする歴史は、貞慶の入寺以降、明確に変遷を追うことが出来るようになるのである。



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