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貞慶の遁世の理由 -父母救済論-

 貞慶が父母想いであったことは、例えば「父母は、我が恩徳至りて深し。僧祇を送ると雖も、尽くし難し。」(貞慶鈔物)など随所に見られる。父貞憲は、祖父信西入道が平治の乱(1156)で自害に追い込まれるや、解任され流罪は免れたものの、出家を余儀なくされた。ちょうど貞慶が生まれた翌年のことである。それから両親は転落の道を歩んだようで、「小僧の父は洛下の隠士なり。(中略)母は下賤の業を開く」(観世音菩薩感應抄)と書き記す。この両親が浄土へ往生することは、難しい存在だったようで「抑も我が父母、罪重く迷い深し。」として「昼夜嘆くと雖も、自力及び難し。」(佛子某春日明神願文)と悲しみ、釈迦と弥勒に父母救済を祈請している。
 特に母のことは嘆きの種であったようで、彼女のために『地蔵講式』(解脱上人爲母御作)を書き与えている。衆生が三途に堕するとしても、地蔵が地獄を巡り歩きて罪人を救済し、閻魔王からもらい受けるとする。だから母に地蔵の名号を称することを勧めるのである。しかし、その母は『笠置寺縁起』によれば、閻魔王宮に堕ちたようで、貞慶は笠置寺六角堂の正面右の庭から閻魔宮に降り立ち「母儀之幽魂」と対面し「色々御物語」をしている。恐らく彼女を貞慶は救済したのであろうが、「別記に之を注す」として詳細は不明である。その「別記」は現存しない。
 一方父貞憲は、弟の澄憲(安居院流の大成者)・覚憲(興福寺別当)・勝賢(東大寺別当・醍醐寺座主)らが仏教界で大活躍しているのを尻目に、不遇をかこっていただろう。「洛下の隠士」にはかかるニュアンスが込められている。さて、歌僧であった顕昭の和歌の詞書きに「藤原貞憲朝臣出家の後、高野にこもり侍りける時、大原の坊にまかりけるに、あはれなる事を書きて侍りける」とあるによって、高野山に籠り、大原にも坊があったようだ。(弁の入道と呼ばれたが、在官中に「少納言権右中弁」であったことによる。)高野山に遁世して空阿弥陀仏と呼ばれた弟の明遍とも関わりを持ったであろうが、貞慶の目から見て、父貞憲は往生できる人ではなかったようだ。
 このような失意と不遇の両親の下で貞慶は育ったのであり、やがて八歳で叔父の興福寺の覚憲へ預けられる。貞慶は幼くして激動する政治に翻弄されていたのである。
 さて信西入道は多芸な人で音楽の道に達しつつも、日本書紀の注釈書「日本紀抄」を著しているが、ここで面白いのは『大悲山寺縁起』という京都の大悲山峰定寺の縁起である。三滝上人(西念)の建立した寺であるが、その由来を信西が本人に代わって記している。三滝上人の父は「弓馬之家」つまり殺生を生業としていた。その父が死ぬ間際に「自分は平生の悪業によって来世は苦果を受けるに違いない。お前が方便を廻らして解脱できるように祈ってくれ」と遺言を残す。三滝上人は二十五歳で出家し、難行苦行して父の救済に励むのである。三年にして夢に父の相貌を見るに、顔は人だが身体は馬であった。熊野の那智の如意輪堂で二年の修行をして、夢を見るに今度は獅子であった。その後十一年間播磨の国の八塔寺で苦行を重ねる。八塔寺は観音の霊地である。そして観音の夢告でやっと父が浄土へ往生したことを知ったのであった。その父が夢に現れ、聚洛と交わらず山林修行したことを如来が讚嘆したと告げる。
 以上が『大悲山峰定寺縁起』のあらましだが、時は久寿三年(1156)で、貞慶の遁世の約四十年前である。しかし、この信仰の有り様は受け継がれたのである。『解脱上人御道心祈誠状』では「四恩」(父母・衆生等)が三悪道に堕するのを、「我にあらずは誰かよく救済せん」と述べ、また建久七年の『欣求霊山講式』(七段)で、霊山浄土に往生を願うのは、『心地観経』を引いて、阿練若に住み、菩薩行を実践し、父母を救済するためであることを明かしている。遁世の理由の一つに父母救済があったのである。
 だが、父母の救済のみであれば、大乗仏教ではあるまい。法相宗の伝統の中に観音信仰が脈々と流れていた。覚憲の師匠である蔵俊は『類集抄』という書の中で、興福寺の一面三目八臂の不空羂索像に触れ、春日明神は不空羂索観音の垂迹であるとし、

観自在菩薩、因りて説いて言はく、我、娑婆世界に於いて大因縁有るが故に、 種々の身を現じ難化の衆を度す。 其の大因縁は則ちこの界の衆生多く流轉生死の父母骨肉なり。 この故に之を化して仏道に入れしむ。

と記している。六道輪廻する我々は、衆生と前世のどこかで父母の契りを結んでいるのである。だから実の父母の救済は大衆の救済へと容易に高まっていくのである。『春日明神大明神発願文』で補陀洛浄土を願って、「ただ願はくは永く観音の侍者となり生生大悲の法門を修習し衆生の苦を度せん」と美しい宣言をなすが、根底に父母救済の念があったのである。


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