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解脱上人貞慶と海住山寺の十一面観世音菩薩

 海住山寺の本堂の御本尊は十一面観世音菩薩であり、また解脱房貞慶(1155〜1213)の庵とされる老宿坊(現在の奥の院)の御本尊も上人の念持佛とされる十一面観世音菩薩である。
 貞慶は応保二年(1162)8歳で興福寺に入り、叔父である興福寺別当覚憲僧正(1131〜1212)の下へ入室したものであろう、永万元年(1165)11歳で出家をした。次いで寿永元年(1182)27歳で維摩会研学竪義を勤め、文治二年(1186)31歳の年に維摩会講師、36歳の建久二年(1191)まで興福寺に住して笠置寺へ移住、更に承元二年(1208)に海住山寺へ再度移住し、建暦三年(建保元年。1213)二月三日に59歳で入滅している。
 貞慶は平安時代の末から鎌倉時代前期の興福寺僧であり、一般的には「鎌倉旧仏教改革派」の代表的人物の一人として 位置付けられ、主として浄土宗の開祖である法然房源空(1133〜1212)の専修念仏を批判した『興福寺奏上』の執筆者として知られ、また『戒律再興願文』などにより、唐招提寺覚盛(1194〜1249)や西大寺叡尊(1201〜1290)などの戒律復興運動の先駆者として、また明恵房高弁(1173〜1232)や興教大師覚鑁(1095〜1143)とならぶ講式作者としても知られる。また法相宗僧として法相宗関係の著作を多く著している。
 しかし貞慶は同時に真言宗僧でもあり、その信仰も真言宗の信仰に基づいていると見ることができる。 もともと観音は三十三身に姿を変じて衆生を救う大慈悲の菩薩とされるが、また阿弥陀如来の脇侍としても祀られ、阿弥陀如来の一生補処の菩薩(次に阿弥陀如来になる菩薩)とされ、また浄土における阿弥陀如来が、娑婆(現世)に顕した姿であり、阿弥陀と観音は不二一体ともされる。貞慶は、その著した『観音講式』の中で、観音は、現世・後生の二世の願、世間・出世間の願の全てを満足するものとし、観音を念じ、真言を誦することにより、貪瞋癡の三毒の煩悩を離れ、現世のうちに観音や阿弥陀如来の姿や、阿弥陀の浄土である極楽世界、観音の住処である補陀落山の様相などを見ることができ、また来世には観音や阿弥陀に遇うことができるとしている。そして願いは極楽往生であるが、若し行業が未だ十分ではなく、極楽往生が直ぐにできないようであれば、先ず観音の住処である補陀落山に往生したいと述べ、そして観音もまた自ら、我が浄仏刹(補陀落山)に生れて、我(観音)と一緒に菩薩の行を修するようにと、行者に勧めているとし、一切衆生と共に補陀落山に生まれて、観音と同様に慈悲を発し、菩薩行を修行し、同じく観音と成らしめようと誓願している。「海住山」という寺号も補陀落山の異名である。即ちここには阿弥陀と観音とを一体とする信仰と、観音と共に菩薩行を修行しようという誓願とが見られる。
 一方で藤原氏出身の貞慶にとっての氏神である春日明神について、『春日大明神発願文』には、観音の侍者となって大悲の法門(観音の法門)を修習し、観自在沙門という名前を得る(=観音と同じ菩薩行を修習する菩薩となる)ことを願い、また兜卒天の内院(法相宗の尊である弥勒菩薩の住処であるが、ここには弘法大師が御座すとされる)に往生して弥勒菩薩に遇いたいと願いながら、更に、若し行業が未熟で兜卒天への往生ができないならば、氏神である春日権現に奉仕したいと述べ、観音と弥勒、或いは春日明神と弥勒と、その住する処は共に仏の覚りの変化した所であり、それらの諸尊は皆法界から現われた存在であった違いは無いとする。ここで前段の観音・弥勒と後段の権現・弥勒とを対比すれば、観音と春日明神とが対応することになる。 貞慶の信仰における春日明神の本地仏は、貞慶作『春日権現講式』の中で、一宮は釈迦如来、二宮は薬師如来、三宮は地蔵菩薩、四宮は十一面観音、若宮は文殊菩薩、山内諸神の中に、太刀辛雄大明神は不動明王の分身、榎本(地主神)は多聞天とされている。
 この中で観音といえば、十一面観音が四宮の本地仏であるが、この四宮は姫大神とも呼ばれる女神である。そして『春日大明神発願文』『別願講式』『値遇観音講式』では春日明神のそば近くに随侍して離れず、明神の威力によって兜卒天や霊山浄土へ往詣し、修行を重ね、行業が熟して不退転の菩薩の位に至り、兜卒天へ上生する時まで、常に春日明神のそばを離れないことが幼子の父母に隨う如し、という願いを述べている。貞慶が海住山寺の本尊としたのは春日四宮の本地である十一面観音であった。すなわち補陀落山へ往生し、観音の側に奉仕したいというのは、そのまま春日明神四宮の姫大神の側に奉仕したいということであって、貞慶の観音信仰は、実は正に氏神春日明神の姫大神(女神)に対する信仰であったといえよう。同時代、栂尾の明恵房高弁(1173〜1232)は仏眼仏母尊を母親のように慕ったと伝えられるが、貞慶が十一面観音=春日四宮の姫大神に随侍したいという所に、幼くして親の元を離れて出家した貞慶の母親への思慕を読み取ることはうがち過ぎであろうか。


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