特集コンテンツ一覧

特集コンテンツ一覧

海住山寺トップページへ

法然の興福寺遊学|能島 覚(佛教大学総合研究所嘱託研究員)

 法然房源空(1133〜1212)は浄土宗や浄土真宗の開祖・祖師として、また日本仏教に大きな転換をもたらした思想家としても著名である。
 保元元年(1156)、二十四歳となった若き法然は南都の寺院へ修学の旅に出る決意をした。それにさしあたって、自身の師である比叡山黒谷の叡空に暇を乞い、洛西嵯峨野の清凉寺へと七日間の参籠へ向う。清凉寺の釈迦仏は三国伝来の仏として霊験あらたかであり、多くの参詣者が雲集した地であった。その仏のもとで求法の達成を祈請したという。そこでどのような心づもりをしたのか、法然の事蹟を記す資料では窺いしれないが、その後、比叡山を離れるという決心が行われたことは法然の一大転機として注目に値する。法然上人伝記では南都遊学とされる。法然は名だたる諸宗の学問寺の当代随一の学者へ教えを乞うためにそれぞれの学僧のもとを歴訪した。その一人に興福寺の学匠、蔵俊(1104〜1180)がいた。貞慶はその蔵俊の孫弟子に当たる。
 貞慶(1155〜1213)の興福寺入門は応保二年(1162)、わずか八歳の少年が六年前に訪れた青年の法然のことをただちに見聞したとは考えにくい。しかしその後、貞慶が師匠の膝元で机を並べ、学問について研鑽を深める光景の中で、師匠の口からかつて興福寺を訪れた比叡山の青年僧の記憶が回想されることがあったやもしれない。貞慶には法然や親鸞のように悪人救済の思想があったことが近年の歴史学の成果で明らかである。もちろん、両者の教えを同質のものとは考えられないが、仏教の歴史において法然・親鸞の専売特許とされるそのような教えが修学の時や場所を親しくする両者に認められることは興味深い。悪人でも救われる道程を貞慶は法然の『選択本願念仏集』よりも数年早く南山城の地で披露した。このことは貞慶の先進性として大きく取り上げられている。
 後に大学者となった解脱上人貞慶は興福寺や南都仏教界を代表して、専修念仏を唱導する法然とその新興教団を糺弾することとなる。元久二年(1205)にかの有名な『興福寺奏状』を起草した。この奏上は法然の教えを奉ずる宗団には九つの誤りがあることを指摘し、朝廷に取り締まりを訴え、法然とその宗団に厳しい逆風を呼び起こすものとなった。



関連情報