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解脱房貞慶上人と浄瑠璃寺吉祥天|海老原 真紀(帝塚山大学 奈良学総合文化研究所)

 浄瑠璃寺の本堂に伝来する吉祥天女像は、長く秘仏であったため鮮やかな彩色や華麗な装身具を今に遺し、その姿は生身の女性のような美しさで数多くの吉祥天女像の中でも著名です。この吉祥天女像の制作年代については、『浄瑠璃寺流記事』(以下『流記事』)に記載されている建暦二年(一二一二)頃とされるのが一般的になっています。また本像が納められていた厨子の扉絵(現在東京芸術大学保管)は当初のもので、正面扉内側に梵天、帝釈天、左右扉内側には四天王、後壁の羽目板には弁才天のほか四尊像が描かれています。
 しかし、吉祥天女像については『流記事』に見えるのみで、制作背景など詳しいことはまだよくわかっていません。 そこで本稿では厨子扉絵やそこから導かれる有力者として貞慶上人を挙げ、あわせて制作背景について考えてみたいと思います。
 まず厨子扉絵について、林温氏の優れた研究(林温「旧浄瑠璃寺吉祥天厨子絵諸尊をめぐる問題」『佛教芸術』一六九号)によると、この浄瑠璃寺厨子絵は奈良朝の伝統を保持しながら、宋代絵画の影響を受けた新旧二つの要素を巧みに調和させた作例であるとされています。そして特にこの中で厨子の扉に描かれる梵天、帝釈天像の持物・服制が海住山寺五重塔の扉絵に描かれる梵天、帝釈天像と共通し、さらに興福寺旧東金堂梵天、帝釈天像の服制とも(持物、梵天・欠失、帝釈天・後補)相似していると指摘されている点に注目したいと思います。
 海住山寺五重塔は貞慶上人が入滅された翌年、建保二年(一二一四)に建立されたものですが、「貞慶仏舎利安置状」によると上人は、すでに在世中の承元二年(一二〇八)、後鳥羽上皇から賜った唐招提寺、東寺伝来の舎利を一粒ずつ海住山寺に安置しています。そして塔建立の際には、弟子の慈心上人(覚真上人)がこの二粒に五粒の舎利を加えて五重塔に安置していますが、もちろん塔は貞慶上人の遺志によって起工されたものと思われます。
 また五重塔初重には、牡丹唐草や宝相華唐草が繧繝で描かれ、輪郭線に朱色が用いられています。これは奈良時代によく行われた繧繝彩色の手法で、実は浄瑠璃寺吉祥天女像本体の彩色にも用いられています。先に厨子絵には奈良朝の伝統を保持していたとの指摘がありましたが、この五重塔や吉祥天女像にも同じ傾向が窺えることは注意されます。
 次に興福寺旧蔵の梵天・帝釈天がかつて安置されていた東金堂について考えてみたいと思います。貞慶上人は北円堂をはじめとして、治承の兵火で罹災した興福寺の復興に尽力したとされています。その中で、東金堂の復興について最近安田次郎氏は、(安田次郎『中世の興福寺と大和』)東西金堂についても貞慶上人の勧進によって修造された可能性を指摘されています。
 また、建長七年(一二五五)塔義撰『三輪上人行状』には貞慶上人が東金堂と塔を勧進造営したとあります。この『三輪上人行状』が撰されたのが、東金堂の造営が終わる文治元年(一一八五)から七十年余り経っていることや、三輪上人慶円の伝記であることを考慮する必要はありますが、貞慶上人と東金堂を結ぶ資料の一つとして注意してよいでしょう。このように浄瑠璃寺厨子絵の梵天、帝釈天像と近似する作例にはいずれも貞慶上人が関わっていた可能性が認められるのです。
 さらに貞慶上人と浄瑠璃寺の関係を『流記事』から見ることにします。『流記事』は、建仁二年(一二〇二)に玄賛講の始修を伝えますが、内容の検討により浄瑠璃寺のものと考えられている『法務御房御初任次第』裏文書貞応二年「某寺手継注進状」を参照すると、この講義は貞慶上人が始めたことがわかります。そして、建仁三年(一二〇三)には貞慶上人が導師となって千基塔供養が行われたと記されています。また同じ年の九月、貞慶上人の勧進によって唐招提寺の釈迦念仏に浄瑠璃寺が勤仕しています。この釈迦念仏会は建仁二年(一二〇二)年八月に貞慶が始行したもので、翌三年には釈迦念仏会として毎年恒例の法会となりました。
 『招提千歳傳記』巻下之二には、貞慶上人がこの念仏会のために東室を修理し、その際、源頼朝が木材を寄進、舎利殿なども再興したと伝えています。また、元久元年(一二〇四)には貞慶上人が住んでいた笠置寺の礼堂にも幕府からの寄進がありました。つまりこの時期、貞慶上人のいくつかの作事には幕府の援助があったことが窺えるのです。ところで『流記事』によると浄瑠璃寺にも、建暦二年(一二一二)、薬師如来の帳を懸ける際に幕府から金物の寄進がありました。『流記事』で見る限りでは、それまで浄瑠璃寺と幕府との関係は認められませんから、ここで幕府から寄進があったことは、先の例と同様、貞慶上人の関与があったからと推測できるでしょう。さらに建暦三年(一二一三)の貞慶上人入滅のことが『流記事』に載っているのも上人が浄瑠璃寺にとって著しい足跡を残したからにほかなりません。
 最後に吉祥天女像の作者について少し触れてみたいと思います。吉祥天女像の姿はあたかも生身の女性を表現するかのような優れた写実性がみえる反面、腰帯付近や裙の背面の衣文は等間隔かつ線状的に刻まれ、腰帯や蔽膝のリボンは等しく下に向って、左右対称に広げるなど写実からは離れた一種の形式の美さといったものを追求する一面もみられます。
 この写実性と相反する要素は吉祥天女像の表現を特徴づけるうえで重要な働きをしています。例えば蔽膝のリボンや腰紐を等しくしかも末広がりに左右対称を意図して広げることで、像に安定感を付与し美しい正面観を実現させています。つまり柔らかな肉身の写実性を失うことなく、礼拝像としての威厳さをもった美しさを表現しているのです。
 一方、細部に目を移すと風をはらんだような大袖や裳裙を渦巻く雲形にまとめる形には新しい中国・宋朝の影響がみられますが、一方で服飾に見える朱色の輪郭線を使う繧繝彩色の方法や大ぶりの文様には日本古来の奈良朝の影響が認められます。このように動静や新旧を織り交ぜた多様な要素を破綻なく、調和融合させる絶妙な構成を見るなら作者は当然優れた技倆を持った仏師としてよいでしょう。
 そこで筆者はその有力候補に快慶の名を挙げたいと思います。快慶が独自様式である「安阿弥様」を確立した時期の作品を見てみると、写実的表現を基調としながらも、適度に形を整え、美しい正面観の実現を念頭に制作されていることが窺えます。吉祥天女像の厳格さの漂う秀麗な表情やくぼみをつける口元、整理された衣文などは、こうした快慶作品に通じるものがあります。
 また、快慶は浄土寺阿弥陀三尊像では、積極的に宋朝の影響を受けた造像をする一方で、金剛院執金剛神像では、奈良時代に制作された東大寺執金剛神像を忠実に模刻するなど多彩な造像経験を重ね、多様な要素を巧みに表現する力量を兼ね備えていったと考えられます。もちろんこれだけでは、吉祥天女像を快慶作と断定するには早計ですが、快慶本人もしくは仮に近い有力仏師によって制作された可能性は決して低くないでしょう。加えて貞慶上人と快慶には、例えば快慶が造像した浄土寺阿弥陀三尊像や東大寺俊乗堂阿弥陀如来像の開眼供養は貞慶上人が行っており、貞慶上人が建暦二年(一二一二)に記した『明本抄』の裏書には快慶が貞慶上人の念持仏を制作するなど、文献からも親密な関係が窺えます。
 以上、先学の研究に導かれながら厨子扉絵や『流記事』に見られる貞慶上人と浄瑠璃寺との関係を見た上で、吉祥天女像の造像の背景に貞慶上人の関与を考え、さらに作者の有力候補に快慶を指摘するに及びました。


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