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貞慶と興福寺|安田次郎(お茶の水女子大学)

 海住山寺はもと観音寺といい、その創建は八世紀の前半にさかのぼる。この寺は12世紀の前半にほとんど廃寺と化してしまい、その跡地に海住山寺が解脱房貞慶によって開かれた。寺号は変わったものの、観音寺からの連続性を重視して、貞慶は中興の祖とされる。
 貞慶は、当代きっての大学者であった藤原信西(通憲)の孫である。信西は官職は少納言どまりであったが、出家後に大きな力をもつにいたった。保元の乱(1156)後は後白河天皇のもとで、今日学界で「信西政権」と評価されるまでの権勢を誇ったが、平治の乱(1159)で滅んだ。父の貞憲は、一説によれば土佐国(隠岐国とも)に配流されたというが、どうやら解官ですんだようである。
 貞慶が叔父を頼って奈良の興福寺に入ったのは、その3年後のことである。8歳であった。11歳のときに出家・受戒し、26歳の治承4年(1180)にいわゆる平氏の南都焼討に遭遇した。
 貞慶は寺内でどんどんと頭角を現していき、28歳のときに維摩会(ゆいまえ)の竪義(りゅうぎ。論議の場で試問を受ける)、32歳のときに講師をつとめた。維摩会は興福寺最大の行事で、この法会(ほうえ)で竪義や講師などの役割をつとめることは、エリート僧の証であった。摂政の九条兼実は、貞慶の説法や表白(ひょうびゃく。法会など行事の冒頭で、導師が趣旨を述べること)などに接するたびに「説法、珍重(ちんちょう。優れている)」、「末代の智徳なり、感ずべきなり」、「表白甚だ優なり」、「演説の旨趣、大僧正・余、相い共に感涙を拭う」などとその日記に記している。
 順調に出世コースを歩んでいた貞慶はしかし、40歳を前にして遁世を決意する。遁世は「二重出家」ともいわれ、ふつうの僧の世界から離脱することを意味した。何がふつうなのかといえば、貞慶のような貴族出身の興福寺僧は、維摩会をはじめとする同寺の十二大会や朝廷で開かれる最勝講などにおいて、一定の順序でしかるべき役割をきちんと勤め、国家や天皇の安全、藤原氏の繁栄などを祈る役割が課せられていた。朝廷が主催したり支援したりする国家的な法会で与えられた仕事を順調にこなしていくことは、法印、僧都、僧正などと僧位僧官を上げていく上でも必要なことであった。
 しかし、朝廷に奉仕し、位や官職を獲得していくことは、仏の道を究めることを必ずしも意味しない。それはいわば、もうひとつの貴族社会に身を置くことでしかない。そのような疑問や苦悩を抱くにいたった僧たちは、朝廷の行事に招待されて僧位僧官を上昇させていく官僧の世界から離脱し、山寺や別所などといわれた草庵などに移り住んで学問と修行に専念した。このような僧たちは当時、聖(ひじり)とか上人(聖人)などといわれ、現代の研究者は遁世僧と呼ぶこともある。兼実は将来を嘱望された貞慶の隠遁の決意を知って自邸に招き、「意趣もっとも貴ぶべし。末代有難きの顕賢なり」と理解を示しつつも、「物の用に叶うべきの人、緇素(しそ。僧も俗人も)かくの如し。これすなわち仏法の滅相なり。悲しむべし。悲しむべし」と優秀な人材の流出を惜しんだ。
 こうして貞慶は興福寺を出てまず笠置寺に、ついで海住山寺に入ったが、興福寺を見捨てたわけではない。貞慶は寺外に身を置きながらもよく同寺をサポートした。とくに目立つのが、その文章力を活かして興福寺の意思を危機的な場面で対外的に示したこと、興福寺の堂舎再建や造像を主導したことである。
 文章の起草からみてみよう。世に「興福寺牒状」「興福寺奏状」として知られる文書がある。牒状は、建久9年(1198)の11月に興福寺僧を代表する別会五師(べちえごし)の名前で鎌倉の将軍頼朝に出されたものである。前月の10月に興福寺の僧綱らは和泉国司の配流を要求して大勢で摂関家に押しかけた。これに対して頼朝は、天皇の代替わりであるにもかかわらず時機を弁えない行動だ、「反逆」というべきだとして激しい怒りを示した。興福寺は苦しい場面に立たされることになったが、牒状はこのとき南都側の立場の説明、陳弁のために貞慶が起草したものである。
 奏状は、元久2年(1205)10月付きで朝廷に提出されたものである。この奏状で「興福寺僧綱大法師」らは、法然のはじめた専修念仏の過失を九箇条あげ、法然およびその弟子は罪科に処せられるべきであると主張した。いわゆる鎌倉新仏教と旧仏教の衝突を示すものとして宗教史上たいへん有名な文章であるが、これも貞慶が起草したものである。
 つぎに興福寺の鎌倉復興への関与についてみてみよう。興福寺の伽藍の復元は、平氏焼討後まもなく始まり、中金堂が再建された建久5年(1194)9月には「興福寺供養」が営まれた。しかし、この時点で再建が完了したわけでは決してなく、往事の偉容の再現にはあと数十年かかる。貞慶の再建事業への関与は、供養後に本格化する。
 現存する興福寺の五重塔(東金堂塔婆)は室町時代のものであるが、勧進方式によって鎌倉時代の五重塔を修造したのが貞慶である。勧進とは、本来仏と縁を結ぶことを勧めること、人びとを仏道に向かわせることであるが、そこから転じて、寺社や仏像の修造などのために寄付を募ることでもある。興福寺は藤原氏の氏寺であるとともに、国の寺、官寺でもあった。したがって、その再建は国家的事業として、また藤原氏の総力をあげて取り組まれたが、鎌倉時代には関東に強力な武士政権が成立し、もはや朝廷にも藤原氏にも昔のような力はなくなっており、あらたな財源の確保が必要となっていた。
 こうして東大寺の再建で採用された勧進方式が、興福寺でも取り入れられたのである。貞慶は配下の勧進聖たちを指揮してひろく貴賤から浄財を募り、元久2年(1205)、あるいは3年に五重塔を完成させた。この過程で、東大寺の再建を大勧進職として担った重源上人は塔の心柱3本を貞慶に贈ったと思われる。貞慶はさらに東金堂の仏像の造像にも取り組んだようで、かつて東金堂に安置されていた梵天・帝釈天像や十二神将像などには貞慶の指導のあとが見られるという。西金堂に安置された金剛力士像なども同様にして造られた。
 承元4年(1210)に完成した北円堂にも貞慶の関与があった。北円堂は菩提山上人専心の勧進によって再建されたが、専心の勧進の拠り所となった勧進状や興福寺政所下文(まんどころくだしぶみ)を書いたのは貞慶であった。貞慶と専心は親しい関係にあり、ふたりは協同して北円堂再建に従事したとみていいだろう。
 形の上では世を遁がれた貞慶であったが、鎌倉初期の多難な時代の興福寺を陰でしっかりと支えていたのである。


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