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春日社における貞慶の信仰空間|松村 和歌子(春日大社宝物殿学芸員)

貞慶の春日信仰については、既に広範囲な研究がなされていて、浅学な私の述べるようなこともない。しかし『春日権現験記絵』(以下御験記)16巻の貞慶に関わる霊験譚の内、笠置(かさぎ)般若台(はんにゃだい)へ春日明神を勧請(かんじょう)する場面には、教えられることが大変に多いので、私なりに紹介をしてみたい。 建久7年(1196)9月27日の夜、笠置寺の般若台の鎮守(ちんじゅ)として春日大明神をお祀(まつ)りするため、小さな社を造ってから、貞慶は同朋を引き連れ春日社に参拝した。たまたま正預(しょうのあずかり)(本社の長官の1人)等が不在だったので当番の氏人(うじびと)(社司の補佐にあたる神官)に命じて、御蓋山の1,5メーター以上の榊を切り出し、第一殿のご神前で榊を手に持って祝詞を上げてもらってご神霊を榊に勧請し、貞慶自身が受け取り、その榊は一旦南門の脇に安置して若宮にお参りした時に、春日明神が貞慶に乗り移って「般若台を守ろう」という託宣を和歌の形で得たのだという。 この霊験譚について貞慶の信仰空間に注目して述べてみたい。

1.信仰の空間としての御間道 貞慶一行は、本社だけでなく若宮社にも参拝する。御験記の絵は本社と若宮社の間の道(御間道(おあいみち))を美しく描いていて、私の最も好きな場面である。 春日社においてこの御間道は、単に道の機能を超えた信仰空間である。夜間の参拝では、しばしば境内諸社の巡拝である宮廻りがおこなわれた。その最も短いバージョンが本社と若宮の間の往還で、数十度、百度、千度といった度数を重ねるほど篤い崇敬の表明となった。
本話では、若宮と本社の間は一度往還されただけだが、春日明神に憑依(ひょうい)された貞慶が若宮の方に立ち返り、石段の下から拝礼する所が描かれ、御間の度数参りもかくやと思わせる。
よく見ると南門前の橋のたもとには、水船と柄杓が置かれ、いつでも手水が出来るようになっていて、多くの衆生(しゅじょう)の参詣を伺わせる。
また道の所々には、灯籠(とうろう)が掛けられている。
今日では中々実感しにくいが、近世までは、多く夜に神社にお参りしたし、特に祈願のあるときは、神前で参籠(おこもり)をした。本話は、春日明神を勧請申し上げるので特に夜である必要があったが、御験記に記される参詣は、多くが夜である。本話からは夜間も対応出来るよう神官が輪番で詰めていたことが明確になり興味深い。
真っ暗闇では、如何にも不便だから、御間道には神への手向けも兼ねて灯籠が設置されたのだろう。今日、隙間無く石灯篭が並んだ美しい景観も同様な信仰が生み出したものなのである。

2.貞慶と若宮付近の信仰空間 本話では、五社の神格を合わせた春日明神が貞慶に乗り移ったと解釈されているが、若宮参拝時には、本社のご祭神は、榊に勧請されておられるわけである。素直に読めば、特に勧請しなかったにも関わらず、若宮祭神が自ら般若台を守ろうと宣言されて、貞慶の体を経て、依代の榊に遷られたと解釈出来る。
とするとこれは、若宮神の貞慶への篤い加護を示唆する物語となるわけである。『沙石集』における本話の類話にも貞慶に憑依した春日明神は童子の形だったとある。童子が必ずしも若宮神を意味しないのは勿論だが、近世になるとこれを赤童子で若宮神の化顕と解釈したものも現われる。 寡聞にして貞慶の若宮信仰を取り上げた研究を知らないが、実は、春日社における貞慶に関わる伝承は、何故か若宮方面に集中しているのである。これらを紹介してみたい。
(1)『布生橋』
前章で紹介した南門の前の橋がこれで、御蓋山(みかさやま)から流れ出る水谷川(みずやがわ)の分流に掛る橋で、本社と若宮社の神域を区切る境でもあった。この水が流れ落ちた谷を香炉谷(こうろだに)また地獄谷と称しており、近世の社記では、貞慶の弟子璋円(しょうえん)の霊験譚に見える春日野の下の地獄と関連付けて記載されている場合もある。 元禄13年(1700)、奈良奉行の与力(よりき)玉井定時の著述にかかる『和州誌』(春日大社蔵)に

社家伝記云。布生橋ハ昔解脱上人論講屋に居りて百日不断護摩ヲ修す。一人の女人信之余、手ヲ親く布ヲ作り法衣料に奉らんと欲す。春日野の辺に於て、盗賊の為に之を奪われる。女嘆いて上人に之を語る。空く此橋を帰り過ぎるに、一の布橋の上に掛りて在り。女之を疑いて之を見るに果して我布也、大に悦びて之を取り、又上人と立帰。是により布生橋の号有りと云々、又一名御間橋と云う。大宮と若宮と其間に有る故に之を名と云々
(私に書き下した)

とある。『和州誌』は、『庁中漫録(ちょうちゅうまんろく)』の一部と考えられ、春日や興福寺の文献を渉猟した詳細なもので、元禄以前の春日社家の記録にこのような記述があったことは信じてよい。布生橋の名を説明する伝承の域を出るものではないが、伝承にもそれぞれに背景はあるはずで、今注目してみたいのは、論講屋での貞慶の参籠のことである。

(2)論講屋
論講屋は、若宮社の南にあたり、三十八所社の斜め向かいにある建物で、興福寺の管理する屋であった。興福寺蔵「春日諸屋支配之覚」(江戸時代)にも

三十八所屋北方 臈分衆参籠有、地蔵千体仏、解脱上人居住所也
論講屋

とあり、解脱上人との関わりも強ち伝説とばかりは言えないように思われる。
幕末の記述と考えられる『改正大和名所図会』(春日大社蔵)には、「論講屋、般若屋手水屋の南方にあり、旧記に論講屋ハ興福寺支配にて往昔解脱上人の参籠所なり、柱に上人の筆跡あり、解脱柱と称す。今此柱興福寺食堂に蔵す。」とある。 実は春日大社には、解脱柱(げだつばしら)と称する柱が現存する。ただ近代の台帳には安居屋(あんごのや)影向間(ようごうのま)の柱であったされていて、これが同じものを指すのは確かではないのだが、刻銘の内容は、興福寺僧理玄の寄進状で、

春日御社奉寄進田地事(中略)右件田地者伝灯法師理玄之先祖相伝私領也、理玄者興福寺寺僧也、春日大明神者昼夜各三返之誓深御座、豈不蒙擁護哉、神恩是重、争不報之故爾割分相伝之彼地、奉寄進論講之大般若経転読之供料(略)寄進状如件 仁治元年十一月廿七日 寺僧理玄在判 藤原姉子在判 同 仲子在判
鎌倉遺文5676に収録

とある。1240年の寄進状が貞慶の筆ということはありえないが、波線部を見れば、論講(屋)の大般若経転読の供料とあるから、論講屋の柱であったと考えてよさそうだ。
建久6年(1195)の笠置般若台の供養(くよう)願文(がんもん)からも貞慶が笠置への遁世に当たって百日の社壇(しゃだん)参詣(さんけい)を行ったことや大般若経の写経をしたことが知られる。(五味文彦氏本寄稿集bQ6参照)
境内に拠点となる屋があったと考えて不思議はない。解脱柱の称が何時生まれたのかは、定かではないが、論講屋が貞慶の旧跡として広く知られていたからこそ生まれた伝承で、大般若経をめぐる貞慶の事跡にも刺激されたものではないだろうか。
先ほどあげた『和州誌』に「昔解脱上人論講屋に居りて百日不断護摩ヲ修す」とあるのは、恐らく笠置への遁世にあたっての百日の社壇参詣に基づく伝承だと考えられよう。

(3)雲隠間(居石)
貞慶が春日明神を拝した旧跡で、論講屋と三十八所社(さんじゅうはっしょしゃ)の間にあった。こここそ貞慶関係の尤もメジャーな伝承で『大和名所図会(やまとめいしょずえ)』以下多くの名所記や社記に載っている。 例えば『春日社若宮記下』には

(前略)三十八社ノ屋ト云、自レ是五十足奥ニ石をタゝミタル所アリ、大明神上人ニ御逢被レ成候所ト云、御詞□(ヲ)かけさせ玉ふと否((ママ))(ヒ(飛)カ)雲舞下ル、依レ其雲隠しトいふ


とあってこの後御験記にもある種々の霊験譚にふれるばかりか、貞慶の簡易な伝記と血脈や貞慶作の和歌多数をあげる。

(4)伊勢遥拝石(いせようはいせき)
論講屋の更に南、紀伊神社の手前には、伊勢遥拝石があり、伊勢の遷宮の際には春日の神職が遥拝していたことが、神主の日記にも見える。『春日大宮若宮御祭礼図』には、「俗にはるかに伊勢太神宮をはいすと云」とある。特に貞慶との関係は見えないが、貞慶と伊勢との深い関係を考えたときには、気になる伝承ではある。
近世の伝承には、誤謬や混同も多いであろうが、全てが論講屋を中心とした一角を指し示しているように思え、こうなると益々貞慶の論講屋参籠が現実味を帯びてくるように思う。
若宮社のある御蓋山山麓の西南の一角は、庶民信仰の篤いところで、何かと伝承の多い場所である。
森蔭は濃く何時も湿潤な場所で、不信心な私でさえ何か霊気を感じる。昨今は、若者を中心にパワースポットの呼び声も高いらしい。是非ご参拝をいただきたいが、先ずは、春日大社公式ホームページhttp://www.kasugataisha.or.jp/春日の杜の散歩道でウェブ上の散策は如何だろうか。
さて伝承から史実まで、その溝を埋めるのは容易なことではないだろうが、貞慶の若宮信仰について、お教えいただける点があれば嬉しい。
当初は貞慶の榊による春日明神の勧請が、忍性へまた興福寺僧の勧請の典拠となることについて触れようと考えていたが、細かなことを追ううちに長くなった。貞慶によって春日にめぐらされた信仰の網目は実に細密なもので、辿るほどに深い。


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