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海住山寺奥の院本尊十一面観音立像(重要文化財)について

 海住山寺には、小像ながら観音の威厳と優雅さを兼ね備えている十一面観音像が伝わっている。この観音像は、重要文化財に指定され、平常は奈良国立博物館の寄託となっている。

伝来 本像の伝来については、『山州名跡志』(正徳元年 1711)や『都名所図絵』(安永九年 1780)に、当寺の奧院の本尊で「十一面観音立像一尺七八寸 作解脱上人」とあり、『瓶原古今志』(寛保2年 1742)には、開山堂に「本尊十一面観音、御長ケ壱尺余、中興開山貞慶上人の守り仏也」とある。貞慶の作というのは、本像の制作年代が九世紀に遡ることから誤りであるが、守り仏、つまり念持仏という伝承は信憑性が高いと 思われる。それは、貞慶の観音信仰と、本像の大きさを考えての故である。

像の概要と特徴  像全体の特徴は、バランスがよく伸びやかな体躯をもち、肉身は張りがあって、衣はその質感がよく表わされている。十一面観音の象徴である頭上面は、頂上に仏面、髻の中ほどに三面(正面は菩薩面、左は瞋怒面、右は牙上出面)、地髪の上に七面を配する。右手を施無畏印とし、左手は肘を曲げて水瓶を執り、後述するように体躯に動きを表して蓮肉上に立つ。 頭上面の特徴は、各面が見やすく、すっきりとした構成となっていること。そして後ろの大笑面が、目には怒りをみせながら、口を大きく開けて笑っていることである。後ろの面は、天平期には目を細めて素直に笑うが、法華寺十一面観音像で本像と同様の表現が見られるようになる。この変化は、十一面観音経典のうち、耶舎崛多訳や阿地瞿多訳などの古いものは「大笑面」とされ、玄奘訳では「暴悪大笑面」と表記されることに対応していると考えられる。つまり本像の後ろ面は、暴悪の相でかつ大笑いしているという不思議な顔を表現しているのである。
 像高は45,6p。これに近い大きさの十一面観音像がいくつか見出せる。東京国立博物館像42,1p、山口・神福寺像44,7p(頂上仏面欠)、奈良国立博物館像42,8p、大阪・長円寺像45,0p、三重・白山町像47,6p、高知・竹林寺像48,8pなどである。このように近い像高の作例が多く見出せる理由としては、十一面観音経典に、像は白檀で「一ケツ手半」の大きさに造れと説くことと関係するものであろう。これらは、小檀像と呼ばれている。
 では、本像の用材はというと、ずっしりとした量感のある硬質の材で、カヤという見方もあるが、この質感からすれば、経典通り白檀の可能性も否定できない。
 構造は、一木から頭頂より蓮肉に至るまで彫出する。詳しく見ると、頂上面と髻の三面は共木から刻み、他の七面は別材制で植え付けられる。右手は指先まですべて、左手は肘までが共木となる。現在は、蓮肉部を正方形に切取り、後補の蓮肉にはめ込んでいる。
 後補部は、牙上出面の一面、正面化仏、左手の前膊半ばから先、右手第2・3・4指の一部、天衣の両腕外側である。また、光背・台座も後補。そして、裳裾後方の先が失われている。
 彩色としては、頭髮に緑青が残り、瞳は墨でその両側を朱で括り、唇は朱であることがわかる。この他、木肌の全面に暗朱系の色が認められる。あるいは蘇芳で染めているのかもしれない。
 現在、胸中央、両肩前、左胸横、臍に小穴、左胸下横に銅釘が残り、別材制の装飾があった痕跡を残している。十一面観音経典の耶舎崛多訳や阿地瞿多訳では、白檀から「其の像身に須らく瓔珞を刻出し荘厳せよ」とあり、神福寺像をはじめとして一木から装飾品を彫り出す作例がある。しかし、玄奘訳になると「其の観自在菩薩の身上に、瓔珞等の種々の荘厳を具えよ」とあり、前者の荘厳具を一木から刻出するというニュアンスから後退し、ただ荘厳具が備わっていればよいことを述べている。このような変化を本像は、反映しているのであろう。
 荘厳具を一木から刻出することは、身体表現に制限を設けることにもなるが、一木刻出からの解放は、身体性を十分に表現することを可能にしたのではなかろうか。

造像の目的とその意味  以下に本像の身体性に着目してみよう。まず正面では、腰を左に捻り、右膝を少し曲げている。この二つの動きは連動するもので、右足を上げようとしていることが伝わってくる。側面においては、上半身を反らしていること、頭部はその上に真直ぐに立てること、右手は肘から先を前に出している。正面の動きと関連して眺めてみるとき、観音像は腰を中心に、右手と右足を前に出す動作をしている。
 このように見てくると、本像の造形的な目標は、一木の中でいかに動きを表現するかというテーマにあったと思われる。本像はそのテーマを、実に見事にこなしているのである。
 このような体躯の動きを表す十一面観音像は、天平期には見られず、法華寺、渡岸寺、秋篠寺等の十一面観音像といった平安初期の名品にみられるようになる。三重県白山町の十一面観音像では、これらの動きに加えて、右踵を高く上げるという分り易い表現を採用している。
 本像は、これらの十一面観音像と同じくする造像思想のもとで作られたと考えられるが、その中における表現上の特徴として、正面の裳裾を上に引上げ、実にすっきりと足首をみせることが指摘できる。また裳裾の後方は、流れる様に背面に引かれる。この裳裾後方の表現は、法華寺や渡岸寺像にみられるものである。ただし、法華寺像などでは、足首をみせない。八世紀初の法隆寺九面観音像は足首をみせるが、裳裾全体を持ち上げて、後方は蓮肉上につかない。よって本像は、同時代の法華寺像などにみる裳裾後ろを長く引く表現とともに、天平期に存在していた法隆寺像等の古像に学んで、新しい表現を作り上げていると言えるのではなかろうか。因みに、条帛の左胸上にみせる結び目も、天平期の乾漆像に表されているものである。
 では一体、十一面観音像の体躯の動きは何を意味するのであろうか。この意味を改めて十一面観音経典に求めてみよう。
 玄奘訳から、このことに関係すると思われる部分を要約すれば、白檀像を用いて、所願成就のための修法を行い、それが叶えられるとき、大地は揺れ、像は動き、最上面の口より声が聞こえると説いている。耶舎崛多および阿地瞿多訳では、「観世音菩薩、道場に来入し、その栴檀像は自然に揺動す」と述べている。
 祈りが観音に届いた証としての奇瑞が述べられているのであり、故に造像の最終目的もこの奇瑞の獲得にあったとも言える。ここでは、この奇瑞のうちに、像が動くことが求められていた点が注目されよう。
 像が動くことの背景を、玄奘訳でははっきりとは説かないが、耶舎崛多および阿地瞿多訳によれば、観音菩薩の道場への来臨という考え方が示されている。またこれに関して、玄奘訳を注釈した慧沼の『十一面神呪心経義疏』では、「観世音は必ず白檀木に依りて瑞応を現わす」と述べている。このようなことから、我国の神が寄り代に依るように、白檀像に観音そのものが依ることにより、像が動くと考えられていることが理解されよう。このことは言い換えれば、白檀による木像が、生身の観音へと変化を遂げたと解されることになろう。
 以上のように、十一面観音像における動きの表現は、祈りの結果として現れる奇瑞の形であり、観音の来臨による生身仏への転換が望まれた姿であると言えよう。
 最後に、本像のやや厳しい表情を作り出す要素である、細く長い目について触れておきたい。
 この目の表現は、正面からは瞑想するかのように半ば閉じられている。しかし、像を高く安置し、下方から拝する時、その目がはっきりと見開き、生気を宿すのである。この時、身体の動きと共に、観音の出現がさらにリアリティーを増すものと思われる。


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