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解脱上人の戒律研究

 解脱上人貞慶が、晩年、戒律の復興に努めたことは、一般によく知られている事実であり、またこの「解脱上人寄稿集」でもたびたび触れられているところです。
 上人が戒律復興の根幹として、唐招提寺で現在も厳修される釈迦念仏会を始めたことについては、藤田依里氏がNo.14「解脱上人貞慶の唐招提寺釈迦念仏会の創始について」に述べておられますし、その後、戒律復興の志を持った貞慶が海住山寺に住したことは、五味文彦氏がNo.27「絵巻の貞慶、戒律の貞慶−その2−」に記しておられます。さらに、そこで定められたものと考えられる法衣については、鈴木辨望氏がNo.12「海住山寺所蔵の『解脱上人 大衣』・『慈心上人 七條』について」で、詳しい調査結果を述べておられますから、ぜひそれらを参照していただきたいと思います。
 本稿では、解脱上人の復興した戒律研究の内容と、その衣鉢を継ぐ海住山寺の僧たちについて、簡単に述べさせていただこうと思います。

 『八宗綱要』を著したことで有名な、東大寺戒壇院中興第二世の凝然大徳(1240〜1321)の『律宗瓊鑑章』という本の記述によれば、中国の戒律は、インド僧である曇摩迦羅が、嘉平二(250)年に、10人の男性に大僧受戒を行ったことに始まるとされます。その受戒後、中国には、『十誦律』『四分律』『僧祇律』『五分律』など、インドで伝持された律が続々と伝わりましたが、そのうち『四分律』の研究のみが発展し、その解釈の違いから、南山宗・相部宗・東塔宗の三宗が並び立つこととなりました。凝然大徳によれば、日本に戒律を将来した鑑真和上は、このうち南山宗と相部宗を承けていたとされます。
 現在では、あまり研究されることのない相部宗ですが、鑑真和上来朝以後しばらくは、南山宗とともによく学ばれたようで、鑑真和上の弟子である霊祐・思託も相部宗に通じていたようですし、入唐して和上に来朝を要請した普照も、帰朝後、相部宗の律学を講義していたことが、『延暦僧録』の記述から知られます。
 また延暦23(804)年の日付を持つ「応令招提寺為例講律事」という太政官符に引用される経論の中にも、法礪の『四分律疏』十巻がみられることから、平安期の唐招提寺でも、相部宗の論書が講義されることが定例となっていたことがわかります。
 こうしたことから、奈良・平安期にわたって、相部宗の律学はかなり研究されていたと言えるでしょう。
 しかし、鑑真和上の弟子達が死去してしまうと、南都の律学は衰退の一途を辿ります。凝然大徳によって、南都律学の衰退は以下のように伝えられています。

後代には漸らく廃し、行も学も倶に没す。七諸寺には皆律宗を置くも、後代には漸らく廃れ講談には及ばず。豊安の没後、一百七十余年を経、人王六十七代三条天皇御宇に至るまでのこの間、律儀は漸らく替れて行われず。その後一百余年を経て、人王第七十四代鳥羽天皇御宇に至るまでのその間、律儀は墜没して行われず。(凝然『律宗瓊鑑章』巻第六、『大日本仏教全書』巻第105、40頁下)

 300年近くにもわたる戒律研究の不在を歎き、この復興に努められたお一人が、解脱上人です。
 上人は、戒律復興を志されて、承元2年(1208)に、笠置寺から海住山寺へと移住され、さらに4年後の建暦2年(1212)には、律の談義をするための道場「常喜院」を興福寺内に建立いたしました。
 上人の戒律復興の実態は、凝然大徳によって以下のように伝えられます。

その後、笠置の貞慶上人、律を起興し、普く門人に命じて、これを講学せしむ。すなわち自ら『四分戒本』を披覧し、定賓の『略疏』を研め、南山の『事鈔』を学び、それ大覚の『鈔批』、志鴻の『搜玄』、景霄の『簡正記』、元照の『資持記』、随って皆これをつくす。智首、法礪、玄暉等の釈、梵網大乗、太賢、義寂等の諸師の解釈、皆な咸く研精し、譜練すべからざることなし。(『円照上人行状』巻上、『続々群書類従』第3、479頁上)

上人が多くの律疏をひもとき、戒律の研究にあたられていたことを知ることができましょう。  海住山寺につたわる覚真(覚心とも)の「定状」の記述から、このうち、上人が特に重要視したのが、『梵網経』と太賢による注釈書である『梵網経古迹記』(以下『古迹記』と略)、『四分戒本』と相部宗の定賓による注釈書である『四分比丘戒本疏』(以下『四分戒本疏』と略)であり、これらの研究を海住山寺で続けるよう、上人が仰ったことが伝えられています。

右、此処に戒律を学ぶべきの由、先師慇懃の教命なり。その内、『梵網経』、太賢師の『古迹記』、『四分戒本』、定賓の『疏』、殊に依学すべきの由、覚真、親しく教命を蒙る(覚真『定状』、佐脇貞明「貞慶の観音信仰と覚真」『龍谷史檀』42、45頁)

上人が興された興福寺常喜院からは、永きにわたって途絶えていた如法別受戒を、和泉国の家原寺において復興させた叡尊が出ており、この戒を受けた禅観房長聖(〜1249〜)が、覚真に従って海住山寺に住し、『梵網経古迹記』の研究者として名を馳せます。長聖は、建長年間(1249〜1255)に、東大寺戒壇院へ招かれ、講義を行うほどの学僧だったようですから、海住山寺での『梵網経』そして『古迹記』研究のレベルの高さが偲ばれます。
 その約半世紀後には、海住山寺の僧である、英俊・英哲・英徳・英賢・覚智らのたのみを受けて、東大寺戒壇院長老の凝然大徳が延慶3年(1310)から、『四分戒本疏』の注釈書である『四分戒本疏賛宗記』20巻を著作しています。
このように海住山寺では、解脱上人の死後も、上人の遺誡通りに、長く『梵網経』と『古迹記』、『四分戒本』と『四分戒本疏』が研究されていたようです。こうした研究状況を裏付ける資料が、近年智積院新文庫から発見されています。
覚真は「定状」において、解脱上人の生前の思いを形として残していくため、冬には『観音品玄賛』(=基撰『法華経玄賛』の観音品)、秋には『菩薩戒品』(=『梵網経』)、夏には『心経幽賛』(=基撰『般若波羅密多心経幽賛』)、春の遠忌日から『比丘戒本』(=『四分比丘戒本』)を講義する四季四度談義と、毎月三度の講問を開くことを定めました。智積院新文庫からは、海住山寺の四季四度談義で使用されたと考えられる『梵網経』、『心経幽賛』、『比丘戒本』に関する海住山寺ゆかりの聖教が発見されており、これらの奥書から実に永正年間(1504〜1520)に至るまで300年近くの間、海住山寺では解脱上人の遺命が忠実に護り続けられたことがわかります。
 このように、解脱上人は、鑑真和上が日本にもたらした戒律研究を、海住山寺で復興され、海住山寺の僧たちは、永きにわたって解脱上人の遺風を慕い、戒律研究の伝統を継承していかれました。
 現在も、海住山寺には、解脱上人の13回忌に向けて建てられた経蔵とされる文殊堂が残っており、この経蔵を中心として、勉学に励んだ海住山寺の僧たちの姿を偲ぶことができます。


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