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上人を偲ぶ

 「解脱坊貞慶上人についての文章を・・・」海住山寺御住職よりの御依頼をお受けしたものの、山寺の和尚の身、笠置山に住する者として、上人への思いを記させて頂きます。  現在では総本山 智積院を御本山とする、真言宗智山派に所属する、鹿鷺山 笠置寺。 しかし、歴代住職は大倉丈英和尚の後、小林慶尊、慶順、慶範と続き、解脱上人 貞慶和尚の「慶」の一字を代々引き継ぎ、上人の遺徳を偲んでおります。 平成23年1月11日、修復作業を無事終了し、御帰山された軸装の解脱上人像に向かい礼拝させていただく御縁をいただきました。
九条兼実の『玉葉』に「末代に有り難きの顕賢なり。物の用に叶うべきの人」と記されている上人は、墨染めの衣を身にまとい、念珠を手にしておられれ、「説法、珍重なり。只、その音の少なるを恨む。談と云い弁説と云い、末代の智徳なり。」『玉葉』とも記されているごとく、もの静かな人柄であったとのではと推察されます。
上人は建久4年(1193年)に、南都 興福寺より、笠置山に居を移されて以来、承元2年(1208年)に海住山寺に入寺されるまでの15年間に渡り、当山を拠点として平安、鎌倉を中心に展開された、法然上人等の専修念仏に代表される、新しい仏教の流れに対し、南都仏教の再興、特に戒律復興運動の推進者として活躍されました。
当山において上人は、般若臺六角堂及び精舎一宇、そして十三重塔及び礼堂の建立と山内の復興整備を手掛けられるとともに、南都をはじめ伊勢、播磨など各地に足を運ばれ、一般に言われている「笠置遁世」というイメージとは異なる活動を行われていたようです。
 上人の信仰について、建久3年(1192年)に著された『発心講式』によると、まず釈尊を讃仰し、『法華経』『涅槃経』の引用により、釈尊が父母のごとく衆生を導かれ、衆生は釈尊への報恩を行うべきことを説かれ、続いて弥勒菩薩を讃仰し、末法の世において弥勒が説法されることを示し、唯識の転識得智についても述べられています。
なお本書には、続けて阿弥陀如来について、「その仏の本願の力により、名を聞きて往生せむと欲へば、皆悉く彼の国に至る。自ら不退転に到らむ。極重悪の人は他の方便無し。唯、弥陀を称すれば極楽に生ずることを得。」として、念仏による極楽往生と、悪人正機説につながる思想が記されている点に注目しておきたいと思います。
 本書は、これ以降、懺悔と菩薩戒、そして功徳の回向について説かれていきます。  笠置山への転居(あえて遁世でなく)の前年に『発心講式』が記されたという点に注目するならば、上人の信仰は従来より論じられているように、法相 唯識思想を根底に置き、釈尊への信仰が中心であるものの、末法という時代背景の中での弥勒信仰が重要な位置を占め、これが弥勒信仰盛んな笠置山への転居の契機になったという裏付けであると考えられます。
 また、本書における阿弥陀如来の記述からは、往生思想についての理解を示しながらも、口称念仏を専らとする法然上人に対して、唯識という心の働きに着目する立場より、上人は『興福寺奏状』を提示されたものと考えられます。
 上人の笠置への転居の理由を、弥勒菩薩への信仰にあるという従来説の検証を『発心講式』を手掛かりとして考えてみたわけですが、本書の記述についてもう一点、菩薩戒について触れておきたいと思います。
 菩薩戒とは御承知の通り三聚浄戒であり、菩薩乗の戒律としての要点は、上人が饒益有情戒と記される摂衆生戒の意義であると思われます。
 現在の僧侶と大きく異なり、南都仏教以来上人の時代に到るまで、僧侶の出家、得度、授戒については国の管理下にあり、僧侶の数についても年分度者という形で管理されていました。
 当時の僧侶は今で言うならば国家公務員にあたり、これに属さない出家者は、奈良時代の行基に代表される私度僧で、民衆の中で自由な活動を行った私度僧に対して、上人をはじめとする正式な、国家公務員としての僧侶が果たすべき役割とは鎮護国家であり、広く民衆に向けての布教、救済ではありませんでした。
 釈尊への信仰心の篤い上人にとって、国家公務員としての僧侶の立場と、衆生救済を説く菩薩戒とのジレンマは容認できる範囲のものではなく、笠置山への転居が遁世と呼ばれながらも、以後もさまざまな形で活躍されたことは、遁世という形によって国家公務員的な僧侶の立場への決別を行い、菩薩戒に基づく本来的な釈尊の足跡をたどる宗教活動へのシフトを行われたのであろうと推察されます。
 さて、現在の社会状況はまさしく末法的様相を見せ、しかし、宗教界に目を向けると、上人の思いとの距離は大きいと言わざるを得ません。
 上人のおられた笠置山(笠置寺)を護持する者として、「我ゆかん ゆきて守らん般若台 釈迦の御のりのあらんかぎりは」との上人のお言葉を心に、求道者として、布教者としての、本来の僧侶の姿を追い求めていくべきであり、僧衣に恥じない我になるべきであろうと思っています。
 拙講ではありますが、笠置山に住する僧として、一文啓上いたします。


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