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解脱上人貞慶と仏舎利 |柴田賢龍

平安・鎌倉時代など古い時代の家系を調べる時によく利用される『尊卑分脈』という書物があります。是は藤原氏や源氏・平氏など諸氏(諸家)の大規模な系図集で、南北朝時代の公卿洞院公定(とういんきんさだ 1340―99)によって編集されたとされています。この書では解脱上人貞慶に注記して、

「希有の大道者であり、三昧(さんまい)の法を得た神変の人なり」

と最大級の賛辞を捧げています。この事からも解脱上人が、当時名の知られた数多(あまた)の名僧の中でも特別な存在として尊敬崇拝されていた事が伺えます。
現在に於いても上人に対する評価・関心が高い事に変わりはありませんが、一方に於いてその父親の権右中弁藤原貞憲に対する関心は薄く、一部の研究者を除けばそのユニークな伝歴はほとんど知られていないのが実状でしょう。それで先ずお父さんの貞憲に付いて、従来言及される事が少なかったその後半生の事歴を紹介します。
藤原貞憲の父親は有名な信西入道通憲です。通憲は保元の乱(1156)で後白河天皇方を勝利に導いた立役者として権勢を誇っていましたが、逆に平治の乱(1159)では失脚して自殺に追い込まれ、僧侶を含めてその子息たちは配流の憂き目に会いました。『尊卑分脈』によれば権右中弁貞憲は解官(免職)され土佐の国に流されたと云いますが、実際には某所に潜伏して配流されなかったらしいのです。乱の首謀者である藤原信頼や源義朝は平清盛に敗れて混乱は終息しましたが、貞憲は復職の道を撰ばず出家して弁入道生西(べんのにゅうどうしょうさい)と称しました。
京都市の北部山中に大悲山峯定寺(ぶじょうじ)という古刹があります。懸崖造りの本堂と創建時の秘仏十一面観音像で知られていますが、大門に安置された阿吽両形の仁王像も大変古いもので胎内腹部の墨書から長寛元年(1163)六月に作られた事が分かります。此の墨書には亦両仁王像の寄進者と思しき「沙弥生西」と「平貞能母尼」なる名前が記されていて、同寺の釈迦如来立像の造立に解脱上人が結縁している事など様々な背景史料から此の「生西」こそ弁入道貞憲であろうと考えられるのです(現在の所、確証はありません)。 もっと確実な史料が京都の醍醐寺にあります。同寺蔵『醍醐寺無量寿院々務法流相承』は、一般に「松橋」と称される無量寿院の歴代院務(院主)とその潅頂弟子について詳しく記した血脈譜ですが、是によれば生西は松橋流祖一海(1116―79)から仁安二年(1167)二月二十八日に伝法潅頂を受けています。生西に関する注記に、

「 (藤原)南家少納言入道信西〔俗名通憲〕の息、権右中弁貞憲なり。解脱上人〔貞慶〕の親父なり。」

と云い、極めて明瞭に此の生西が弁入道貞憲である事を示しています。当時太政官の官僚を辞して出家入道する人はそれ程珍しくありませんが、本格的に修行して伝法潅頂を受け密教の阿闍利にまでなる人は少なかったのです。貞憲はただ現世に倦(う)んで出家して浄土往生を願っただけでは無く、新しく真言密教の世界で自らの可能性を探ったと云えるでしょう。実際、鎌倉時代に於いて真言学僧としての弁入道の評価は高く、醍醐寺だけでは無く関東鎌倉にあってもその名はよく知られていたらしいのです。それと云うのも中世のタイムカプセルと称される金沢文庫保管称名寺聖教の中には、師僧一海の真言口決を記した弁入道生西の抄物(口伝書)が何部も遺されています(不完本が多いのですが6、7部はあるようです)。 又生西の活動は京都だけに留まらず南都(奈良)にも及んでいます。明治維新後の廃仏毀釈によって廃寺になりましたが、奈良県天理市の山の辺の道沿いに内山(うちやま)永久寺という大きな真言系寺院がありました。平安末から近世に至るまで醍醐寺の金剛王院法流を継承していた事が知られ、亦「大先達(だいせんだつ)」として修験道も盛んな寺でした。この永久寺の由緒歴史や仏事について記した『内山之記』という書物があり、その中で春秋二季の彼岸法要に関連して本願頼実僧都を始めとする同寺の発展にとって重要な人々の名前を列記する中に「弁入道生西、阿闍利亮恵」と見えています。
この亮恵阿闍利(1098―1186)は内山真乗房と称された当時著名な醍醐寺の真言学僧であり、亦永久寺の真言開山でもありましたが、近世に成って興福寺系の顕教法流が衰えてからは永久寺一山の開創者と考えられるようになりました。実は生西は此の内山亮恵の受法弟子でもあったのです。高野山に蔵する『諸尊雑記』と題された古写本の承元二年(1208)の奥書に、この書物は内山に於いて弁入道貞憲が真乗房(亮恵)阿闍利から習った口決を記したものであり、禅門(弁入道)が入滅した後で解脱房貞慶によって禅門の遺言通り本寺(醍醐寺無量寿院か永久寺)に送り届けられた、と記されています。
このように弁入道生西は内山永久寺と非常に関係の深い人であったのですが、同寺の仏像等の文化財は破却を免れたものも諸方に散逸してしまった為に、現在のところ峯定寺仁王像の胎内銘のように永久寺と生西の関係を具体的に示す物証は見つかっていません。また弁入道がすぐれた真言学僧であったからには、その子である貞慶も真言密教に関する相当な学識があったのでないかと思われるのです。

さて仏教僧侶として仏舎利を尊崇し、更にはその威神力を信じる事は当然でしょう。しかし時代により、或いは個々の人により、舎利に対する信仰に温度差があるのも亦事実です。鎌倉時代後期に製作された『春日権現験記』第十六には、建久六年(1195)九月の頃に大和国宇陀郡に於いて解脱上人が病気になった時、春日大明神が上人に降臨して託宣した物語が記されています。その中で、上人が発心し、亦舎利を信じるに至ったのは大明神の加護に依るのであると述べていますから、上人の仏舎利に寄せる思いの強かった事は上人在世時からよく知られていたらしいのです。
又古くから解脱上人の製作とされている『舎利勘文』という書物があります。是は広く仏教典籍から仏舎利の功徳に関する文章を集め編集したものですが、実には『大正大蔵経図像』第十巻に収載する弘安年間(1278―87)澄円作『白宝(びゃくほう)鈔』の「ダド(梵字datu)勘文」と内容が全く同じであり、研究者によって解脱上人の製作とする事に疑問が投げかけられています。
一方、『続真言宗全書』第31巻の『表諷讃雑集(ひょうふさんぞうしゅう)』には 解脱上人の作とされる文章が幾つも収められていて、その中に奈良市菩提山町にある 菩提山寺(正暦寺)に仏舎利百余粒を安置する為の十三重の塔婆建立に協力する事を勧める状(勧進帳)があります。現代語訳して紹介すればよいのですが、私の文才ではどうしても冗長で退屈な文章になる事が避けられないので、一部()で内容を説明補足して和訳文を以下に掲載して本稿を締めさせて頂きます。

菩提山寺  十三重の塔婆を起立して百余粒の舎利を安置することを請える状 右、如来の遺身は之を舎利と号し、舎利の所在は之を塔婆と称す。其の(舎利の)形は芥子(けし)の如しと雖も、生身(しょうじん)(の御仏)に異ならず。其の量は桑葉に等しと雖も、能(よ)く勝果を招く。舎利塔婆の功徳、甚深なる者か。爰に正願院というは、壺中の甲地(別世界の意か)、塵外の勝境なり。煙霞に情あり。春花は自ずから菩提の色を化(あらわ)し、鳥獣は(人を見ても)驚かず。秋風は漸く仏法の音(こえ)に馴れ、釈尊の駄都(だど/舎利)は此の処に流布して機感相応す。世は其の縁を推(たず)ねて人毎に之を求むること、枯渇して水を思うが如く、年毎に之をフ(ささ)ぐること、貧匱(貧しい人)の珠(たま)を得るに過ぎたり。
去る孟夏(旧暦四月)の候(とき)に及んで重ねて五百粒を奉請(ぶじょう/申請)せるとき、事の奇異なること殆んど涌出(にゅうしゅつ)するが如し。時に道俗群集して頭を叩きて悲喜し、親疎来たりて機に随って請得(しょうとく)す。其の施与の余りは留まりて山上に在り。之は猶百粒許(ばか)りなり。双林(沙羅双樹/釈尊入滅を云う)分布の後、此の例(ためし)は未だ聞かず。一朝古今の間、其の跡は已に絶えたり。彼の鑑真和尚は数千枚を南都(唐)招提寺に安じ、弘法大師は八十粒を東洛陶化房に納めて永く皇国に伝う。福田を充(み)たすと雖も、天使(天子/天皇)に非ざれば其の封を開かず。勅許に非ざれば其の分を預からず(分与されることは無い)。
豈(あに)図らんや(思いもかけず)、我輩輒(たやす)く此の事を恣(ほしいまま)にす。随喜の余り相議して言(もう)さく、夫(それ)仏法の道は利益を本と為す。利は則ち遠益に及び、宜しく広救(こうぐ)すべし。(此の百余粒の仏舎利を)若し一所に安ぜざれば恐らく紛失あるか。若し末代に伝えざれば、豈に群迷を度さんや。須らく制多(塔)を造り、以って後昆(後世の人)に貽(のこ)す。
抑(そもそ)も宝塔の層級は位に随って差あり。其の中に如来の霊廟は、宜しく十三重を用うべし。財力の堪えざる間、多くは省略の法を存す。今清涼山(五台山)の風儀を訪ね、宝池院の高蹤(名跡)を追わんと欲す。日域(日本国)の中にも粗(あらあ)ら其の製(すがた)あり。而れども土木多事にして構成を締(し)むる(完成する)こと、已に桑門(僧侶)の力無く、只檀那の助けを待つ。
大山に土を譲らず、何ぞ一針・一草を嫌わんや。仏界に志を捨てず、只有るに随い無きに随うべし。昔ミ猴(みこう/猿)の単石を重ねて、猶三十三天(帝釈天宮)の勝報を感ず。長者の一銭を施して、久しく九十一刧の快楽(けらく)を受けたり。況や人倫の誠に於いてをや。況や貧乏の志に於いてをや。増福・延命は塔廟の徳、是大なり。成仏・得道は支泥(支提/廟)の功、朽ちること無し。
伏して願わくば知識(同胞)互いに善根を資(たす)けんことを。然れば則ち風鐸は遥かに響きて常に花蔵界の荘厳を模し、露盤は永(とこしなえ)に耀き以って上宮王(聖徳太子)の誓願に倣う。信謗結縁の人、禽虫近影の類、皆安養(極楽浄土)知足(弥勒浄土)の生因を植え、遂に四智・三明の覚果を成ぜん。
   建久五年(1194)     解脱房

(以上)


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