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解脱上人貞慶と仏舎利 |柴田賢龍

 藤原貞憲の子として生まれた貞慶〔久寿2年(1155)〜建暦3年(1213)〕は、8歳の時に南都に下り、11歳で出家して叔父の覚憲に師事し、興福寺で教学を修めながら寺僧の階梯を昇っていった。しかし建久3年(1192)に笠置寺へ隠遁し、さらに承元2年(1208)に海住山寺に移ったことは周知の通りである。
 貞慶の宗教活動や信仰についてはこれまでも多くの研究者により述べられているが、貞慶が法相教学を培った興福寺でどのように認められ、後世まで影響力を及ぼしたのかについてはあまり言及されていないところである。そこで興福寺に伝来する史料から貞慶の事績を探り、特に興福寺門跡にとっての貞慶の存在を述べてみたい。
 興福寺の多くの子院のなかでも、一乗院と大乗院は貴種の入寺する別格の院家であった。中世ではこの両院家に摂関家の子息が入室し、門跡と呼ばれ、一乗院門跡と大乗院門跡が寺内を二分する支配力をもっていたのである。ここで注目したいのは、門跡による学僧に対する教学面での影響力である。そこに貞慶の著書が大きく関係している。
 貞慶は、鎌倉初期の法相教学の発展と因明研究に功績を残した、南都の仏教を代表する学僧である。本宗の教義を示す内明(ないみょう)は、法相宗の興福寺では唯識であり、因明(いんみょう)(論理学)は唯識の理解に不可欠とされる。貞慶は、鎌倉期の教学復興の先駆的役割を果たした蔵俊の孫弟子にあたり、蔵俊の新しい因明研究が、貞慶の師である覚憲を経て、貞慶の「明本抄」となって大成したといえる。名称の通り「因明之本志」が著されたものである。「明本抄」13巻は、18巻からなる著作の前半部分であり、後の5巻を「明要抄」とするが、本来一体のものであった。
この「明本抄」「明要抄」は、興福寺では「重書」として扱われ、門跡の管理のもと、学問僧といえども簡単には見ることのできない書物であった。当時の興福寺の学僧は、各種の法会に出仕しながら寺僧としての階梯を昇進し、僧位・僧官を取得していく。そのため法会で行われる論義(問答)に備えて、唯識や因明の論義草(論題ごとに記された問答草)を学ぶのであった。応永10年(1403)に法花会の精義(しょうぎ)(問答の当否を判断する役)をつとめることになった興福寺僧の良英は、大乗院門跡孝円から春日社一切経御廊にて「重書」の「明本抄」を「伝受」されて披見が許され、さらに2日後には菩提山正願院の経蔵に納められていた「重書」の「明要抄」を、門跡孝円が自ら取り出し、これを拝見することができた。この時の良英の感激した様子が記録されている。では何故これらの書物が門跡により管理されることになったのであろうか。そこには貞慶による「遺言」が存在した。
「明本抄」の奥書と同日(建暦2年12月23日)に記された「明本抄日記」には、将来「明本抄」を伝授していく人の器量について述べられている。

将来付属之人、偏可簡法器心性、若自門之中、無真実之器者、當時伝授三人之内、随宜可令相譲、

このように、「明本抄」を付属する人は「法器心性」「真実之器」でなければならないと書き置いたのであった。眼病の貞慶のために「明本抄」の代筆をした良算の起請文も同日付で残されており、ここでも他人の書写を禁じ、「一期之後」は門弟の中で「法器躰」を選び相伝することを誓約している。このように「明本抄」の伝授には、仏法を受けるに相応しい「法器」でなければならないという厳蜜な条件が貞慶により課せられ、そのことが「明本抄」を重書として扱わせることになったといえる。
 つぎに、貞慶の他の著書についてみていきたい。ここにも興福寺門跡の特別の取り扱いがみられる。
 興福寺の歴代の門跡は、一乗院・大乗院それぞれの院務を相承するにあたり、付帯する所領や諸職のほかに多くのや文書を相伝する。大乗院の場合、正願院に経蔵が置かれ、ここに「古今相承二明重書」が納められていた。正願院とは、菩提山正暦寺にある子院で、興福寺別当信円(藤原忠通息)が文治2年(1186)に創建し、経蔵は承元2年(1208)に建立された。信円が菩提山で亡くなると、正願院は大乗院門跡に相承され、経蔵も受け継がれていった。弘安6年(1283)の正願院経蔵内の聖教を一覧した記録があり、そこに多くの貞慶の著書を確認することができる。「法花開示鈔 皮子一合」は、承元2年(1208)の貞慶著「法華開示鈔」であり、「尋思 皮子二合」は、建仁元年(1201)に貞慶が撰述した「成唯識論尋思抄」と思われる。また、「尋思抄」の草稿本とされる「摩尼抄 櫃一合」など、ほかにも唯識や因明の聖教が多く納められていた。前述のように応永10年(1403)にも、ここに「明要抄」があったことが確認でき、経蔵は歴代の大乗院門跡により守られてきた。
 このように「二明聖教」、すなわち内明(興福寺における唯識)と因明の聖教のうち、とくに解脱上人貞慶の著書は「重書」として門跡が相承し管理していた。学僧が修学のためにこれらの「重書」を披見するには門跡の許可が必要であり、その許可状の記録も残されている。その場合、年齢と学功に条件が付けられており、許可されたのは「重書」を拝見するに相応しい学功を積んだ学僧であった。
 門跡が「二明聖教」を独占し「秘書」として扱うのは、教義の秘奥を掌握しているという認識であった。教学を伝授するのは、貞慶の「遺言」に則った、正統な法嗣と位置付けられる門跡でなければならなかったからである。「二明聖教」は、興福寺の教学を支える大変重要なものであり、門跡が「重書」や「秘書」の管理を独占することによって、教学面から学僧を統括することができたのである。
 これまで貞慶については隠遁後の活動が注目されているが、興福寺の教学活動に及ぼした貞慶の事績は多大であり、後世になっても前述の著書ばかりでなく、「上人之御草」として伝来するさまざまな著述を大切に扱っている。興福寺門跡も貞慶の著書を「秘書」とすることにより教学面での権威を保つことができた。ここに貞慶の法相教学と因明研究の功績、さらに伝授の過程で生まれた影響力を再確認にして本稿を終えることにしたい。


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