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解脱上人貞慶と唐招提寺の釈迦念仏 | 細川涼一

 唐招提寺の釈迦念仏は、建仁三年(一二○三)九月、解脱上人貞慶によってはじめられた。貞慶は専修念仏に対抗して釈迦信仰や弥勒信仰を弘め、法然の専修念仏を批判した『興福寺奏状』を執筆して、鎌倉時代における南都仏教復興の立役者となった人物である。九月十九日に開始された釈迦念仏は、二十六日までの七日七夜にわたって行われたが、貞慶はその初日に、次のような願文を読みあげた。
 唐招提寺は鑑真が釈迦の舎利を将来した聖跡である。しかし、草創から年を経て、資縁も欠乏し、僧徒の数も少なくなって、寺は衰微し、堂舎も住侶も隠滅しようとする事態が近くにあった。そこで貞慶は前年の八月、一人の禅尼と一人の善女の援助を得て、釈迦念仏の道場とする建物を修理した、というのである。
 すなわち、貞慶が釈迦念仏をはじめたのは、衰微した唐招提寺を釈迦信仰の道場として復興するためであった。ちなみに舎利は、釈迦の遺骨と伝える米粒に形状が似た宝石であり、中世には鑑真将来の唐招提寺の舎利が、空海将来の東寺の舎利とともに、釈迦の舎利として信仰されていた。現存する唐招提寺東室の馬道以南は礼堂と呼ばれているが、これは貞慶の願文にも見出せるように、釈迦念仏会を行うために、建仁二年八月に貞慶によって礼堂として改造されたものである。『招提千歳伝記』旧事篇にも、「建仁二年八月、解脱上人が試みに念仏会を修し、人に勧めて唐招提寺の東室を修理して念仏の道場とした」と記されている。
 貞慶が釈迦念仏をはじめるもととなった釈迦如来観は、釈迦はこの界の慈父、われらの悲母、一代の教主、四衆の本師という、一体で四徳を兼ねているという『悲華経』にもとづくものであった。貞慶はこの『悲華経』の考えにもとづき、七日七夜の釈迦念仏で大慈大悲牟尼の名号を称えることを人々に勧めた。
 貞慶が釈迦念仏をはじめた時に援助した一人の禅尼と一人の善女の名は明らかでない。しかし、唐招提寺の釈迦念仏に結縁した女性として、八条女院に仕えて女房名を八条院高倉と名乗り、出家名を空如と名乗った女性の存在が知られている。空如(一一七六―?)は、二条天皇の后であった高松院(鳥羽上皇皇女)が、天台の安居院流の唱導で知られる安居院澄憲と密通して生まれた娘である。母の高松院は、彼女の御産に際しての難産で死去した。いわば宮中のスキャンダルによって出生した彼女は、伯母の八条院に引き取られて養育され、伯母に女房として仕えて八条院高倉と名乗った。そして彼女は、建暦元年(一二一一)の八条院の死去を契機に出家して空如と名乗り、醍醐寺の尼寺である勝倶胝院に住んだが、遅くとも仁治年間(一二四○―四三)には法華寺に移住し、法華寺安居房に隠居している。彼女は法華寺の尼として隠居していた時に、唐招提寺の釈迦念仏に結縁するため、唐招提寺に参籠した。その時に空如は、「自分は東寺の仏舎利を所持しているが、その真偽を試したい」と述べ、自ら鉄槌を取って舎利を石の上に置き、三回打ったが折損することなく、五打に及んだ時、微塵に砕けた。しかし、その一つ一つが光明を放ったので、空如は真偽を疑ったことを後悔し、細かく砕けた舎利を拾い集めて、死ぬまで信敬したという。このように、唐招提寺の釈迦念仏には多くの女性も結縁したのである。
 貞慶がはじめた釈迦念仏は、寛元二年(一二四四)に唐招提寺中興第一世長老として入寺し、唐招提寺を律宗寺院として復興した覚盛(貞慶の孫弟子)によって継承された。覚盛は唐招提寺に入寺する前年の寛元元年(一二四三)の三月十八日から二十五日まで、自分の生地である大和国服郷にある服寺(平城左京九条三坊四坪にあった行基の創建といわれる古寺)で釈迦念仏を開き、唐招提寺に入寺しても春に釈迦念仏を行った。覚盛死後五年後の建長六年(一二五四)九月十九日、覚盛弟子の唐招提寺中興第二世長老證玄らによって作られた諷誦文によると、覚盛によってはじめられた釈迦念仏は七日不断に行われたが、この建長六年から八日間の日数になった。彼ら律僧は、釈迦念仏の期間、舎利の前に参籠して舎利を供養するとともに、法華経の講讃が行われた。
 現在、覚盛の作になる『釈迦十二礼』と題する書物が伝わり、そこには「南無恩徳広大釈迦牟尼如来、慚愧懺悔六根罪障、南無恩徳広大釈迦牟尼如来、今生必得発菩提心、南無恩徳広大釈迦牟尼如来、自他同証無上菩提」と釈迦念仏の唱え方が記されている。この『釈迦十二礼』は、覚盛が唐招提寺や服寺ではじめた釈迦念仏のテキストとして作ったものであろう。
 唐招提寺中興第二世長老證玄らは、正嘉二年(一二五八)に、釈迦念仏の本尊として、礼堂に清凉寺式釈迦如来立像を多くの人々の勧進によって造立した。その胎内に納入された文書から、釈迦如来像の造立のための結縁勧進は、次のようなものであったことがわかる。すなわち、遅くとも正嘉二年四月に一万人の結縁を目標として勧進がはじめられ、最終的には九九九五人の結縁者を得て、六月二十日に勧進を締め切った。結縁者は現在者(現存者)だけでなく過去者(死者。その親族が結縁した)にもわたり、男性の僧(比丘・沙弥)、女性の尼(比丘尼・沙弥尼)、在家の男女にわたっている。その中には、藤井頼継・橘貞房や藤原好子など、苗字(姓)や氏の名を冠する貴族層や侍身分の男女の名も若干見出せるが、そのほとんどは、たとえば太郎・力寿女などの名のみ記されている凡下身分(一般庶民)の人名である。彼らは、五百反(返)を単位として、その倍数(千反・二千反など。最高は一万反)の念仏を称えることで、その名を記した交名が、完成した釈迦如来像の胎内に一種のタイムカプセルとして納められたのである。

釈迦如来像造立に結縁した人々が自らのため、あるいは過去者のために釈迦念仏を称えたのは、一切の衆生(生きとし生けるもの)と、六道を輪廻している亡魂の、釈迦の仏国土への往生を平等に祈願するためであった。そのような唐招提寺釈迦念仏の趣旨を最もよく現しているのが、結縁交名中に虫類の交名があることである。
 胎内文書中、虫類の名を含む交名は二通ある。そのうち一通には、人名に交じって、クモノルイ(蜘蛛の類)、イホノルイ(魚の類)、トリノルイ(鳥の類)、シヽノルイ(獣の類)、ツヒノルイ(螺の類。貝類)、ノミノルイ(蚤の類)、シラミノルイ(虱の類)、ムカテノルイ(百足の類)、トンハウノルイ(蜻蛉の類)、アリノルイ(蟻の類)、ミヽスノルイ(蚯蚓の類)、カヘルノルイ(蛙の類)、カノルイ(蚊の類)の名が記され、「必ず必ずこれらの衆生より始めて、一切衆生皆々仏となさせ給へ」(原文は片仮名まじり文)と祈念されている。もう一通は、ほとんどが女性を中心とする交名であるが、その間に交じって、「かいこの類、かに類」(蚕の類、蟹類)の名が見える。
 ここに見える動物名は、禽獣類・魚介類については細目にわたることなく、獣の類・鳥の類・魚の類・螺の類として一括されているのに対して、小動物の虫類(昆虫類だけでなく、両生類の蛙、環形動物の蚯蚓も含む)については、細目ごとに詳しくその名が記されていることである。
 これは、人間が輪廻転生するかも知れない有情(一切の意識ある生き物)、六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)のうち、直接目に触れることのできる「畜生道」の生き物の極点としての、蜘蛛・蚤・蟻・蚊などの虫類の名を詳しく掲げることで、一切衆生が釈迦の仏国土に往生することを企図したものであったといえよう。その意味でこの交名は、中世の博物学の知識を示すものとしても興味深いものがある。すなわち、虫類を含む多数の人々の結縁によって成り立ったのが、唐招提寺の釈迦念仏であった。

このように、貞慶が唐招提寺ではじめた釈迦念仏は、その後、覚盛や證玄らの唐招提寺を復興した律僧に引き継がれ、花開いたのであった。


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