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解脱房貞慶と「興福寺奏状」 | マイケル・ジャメンツ

 解脱上人貞慶が南都の寺社社会に活動した事はよく知られていますが、京都の醍醐寺との縁は、あまり知られていません。上人が生を享けた一門は、祖父藤原通憲の属する、学問に優れていた藤原南家の出身であることは周知の事実ですが、高階氏との関わりについては、頭にすぐ浮かんでこないのではないでしょうか。ところが、上人の父親藤原貞憲の生涯を調べてみますと、貞慶と醍醐寺、そして高階氏の親類との関係は意外と深いことが分かります。

1.醍醐寺のこと

 解脱房貞慶伝に見える醍醐寺の関係といえば、 貞慶が醍醐寺座主実運から真言密教口決を受けたとされていることや、貞慶の叔父勝賢と従兄弟成賢の二人が、上人が在世している間に醍醐寺座主になっています。また、貞慶と高階氏との関係について、祖父藤原通憲(信西入道)が、壮年期の一時期、高階通憲と呼ばれていたことも注目されます。その理由は、信西の養父が高階氏出身であり、信西の妻のひとり(上人の父貞憲の母)は、高階重仲の娘でした。こうしたことについて近年研究がなされ、高階隆兼が描いた十四世紀の『春日権現験記絵』の内容が、貞慶の原作に部分的に基づいていたという説が出ています。とはいえ、こういう事実は、氷山の一角にすぎません。

 先ず取り上げたいのは、様々な貞慶伝に書かれている、「上人が若い内に、実運から求聞持法を受法した」という記述です。この話は、貞慶筆の『虚空蔵要文』の奥書にある「去承安二年孟夏之頃、就醍醐寺運闍梨傳受求聞持法」(去る承安二年孟夏の頃、醍醐寺の運闍梨傳に就きて求聞持法を伝授せらる)に基づいています。しかし、貞慶の祖父通憲と付き合いがあった実運は、上人の叔父である勝賢と明遍の師でもありましたが、 承安二年(1172)より十年以上も前に他界しています。貞慶のいう「運闍梨」がさす実運という線は消えます。

 では、醍醐寺の金剛王院の祖とされている源運を、「運闍梨」の候補として考えてみますと、源運は、承安年間のおわり頃から後白河院の寵愛をうけ、晩年近くに権大僧都に昇り、俊乗房重源や守覚法親王などの著名な僧侶を灌頂弟子にしました。源運は、「運闍梨」を彷彿させ「運僧都」とよばれるようになりました。承安二年には既に法眼になっていた源運を「運闍梨」と呼称することは、やや疑わしく感じられますが、 源運の灌頂弟子行運も、「運闍梨」の候補とも考えられます。

 貞慶および源運の金剛王院との関係は、永く続きます。世代がかわり、源運が亡くなってのちも、貞慶と親しい関係にあった真言宗の僧である大夫上人瞻空・丹波入道定意や従兄弟である信憲は、源運の孫弟子である実賢大僧正の付法弟子になりました。貞慶の父親貞憲も、源運から灌頂をうけたという記録が残っています。

 残念ながら、源運と貞憲の師資関係は、歴史資料に殆ど残されていませんが、1170年代を中心に、権右中弁貞憲が出家して弁入道生西となってから、醍醐寺無量寿院(松橋流)の一海已講から伝法灌頂をうけ、松橋流の諸尊法の口决をまとめたことは、 金沢文庫にある『雑抄』や『教抄』などの写本に数多く生西の奥書がみえる事から間違いありません。醍醐寺松橋流の外に生西は、源運の兄弟弟子であった真乗房亮恵の灌頂弟子になって亮恵からも口決を受けました。

 ちなみに『教抄』は、もと興福寺の僧であった義覚(醍醐寺では教王房禅恵という)からの諸尊法の伝受をまとめたものです。生西の写本は、醍醐寺だけではなく、大和の菩提山寺や真言律の寺に伝わっていました。

 十二、三世紀の醍醐寺に詳しい『土巨抄』では、生西(貞憲)が亡くなってのち、その息子貞慶が、亡父が一海と亮恵からうけた口決を記した書物を預り、元に返したということが書かれています。この話をそのまま信じるならば、生西は1180年ごろに他界した事になります。しかし、生西が亡くなった時期は、謎めいています。その時期を決めるのは、唱導資料の解釈にかかるものです。安居院の『言泉集』と貞慶の『讃仏乗抄』の記述から、1180年頃との説が採れますが、最近、貞憲が1200年近くまで生きていたという説も浮上しています。
父親生西がそこまで長生きであったならば、貞慶の般若台建立(1195)や峯定寺の釈迦如来像の供養(1199)は、父親生西の「死去」と関連している可能性も考えるべきでしょう。(とにかく、少なくともその可能性もありえることを念頭におくべきではないでしょうか)

 祖父信西入道とその息子でもある生西(貞憲)は、 重要文化財の釈迦如来像が安置されている峯定寺の支援者でもありました。貞慶と峯定寺との関わりは、代々の縁から生まれるのかもしれません。その峯定寺の釈迦如来像の結縁者についての考察は後半にゆずりますが、ここでは先ず醍醐寺のことをもう少し取り上げたいと思います。

 生西(貞憲)が醍醐寺に住していた時期、弟勝賢は寺から追放されたままであり、生西と勝賢の間柄がどのようであったかははっきりしていません。貞慶にとって叔父であり、三度にわたって醍醐寺座主になった覚洞院勝賢は一体どんな存在であったかはよく分かりませんが、勝賢が亡くなった時に貞慶が追善供養のための草案としたとみえる「醍醐僧正追善」という資料が、金沢文庫に保管されている貞慶作『讃仏乗鈔』に残っています。この唱導資料は断片的なものですが、「醍醐僧正追善」は、 弥勒を中心とする法相思想が顕著に反映されていて、貞慶作とするに相応しい内容と思えます。それだけではなく、その中には、貞慶の家族の様々な歴史的な事実(特にその一門と醍醐寺と長年の関わり)も見えます。

 また、家族ではありませんが、醍醐寺三宝院で勝賢から伝法灌頂をうけた静遍が貞慶の室に入って、道心を凝ったことがあったのは、静遍作の『続選択文義要鈔』の裏書から読み取れますが、ただし残念ながらそれ以上のことは委しくわかりません。

 貞慶と醍醐寺との関係はあくまで間接的ですが、真言諸尊法の口決集である、宏教作『金玉』において「興福寺権別当僧正并解脱房上人等受法灌頂事」と題された項目のあとに貞慶の消息があり、貞慶がその晩年近くに真言密教の僧侶との文通があったことが推察されます。題名が誤解をまねきかねないのですが、書簡の内容から察すれば,貞慶自身の受法ではなく、従兄弟である興福寺権別当信憲の密教受法の許しについての交渉のようです。以上に述べましたように、数年後に興福寺別当職を辞した信憲は、法相宗の最高位に昇ったほどの僧侶でありながら珍しく、醍醐寺の金剛王院の大僧正実賢から、真言密教の伝法灌頂を受けました。この書簡は、その灌頂より十年以上前のものですが、その宛先とみえる宏教の師匠蓮顕は、醍醐寺の金剛王院流と同様に、同寺の三宝院流や南法華寺こと壺坂寺の法流(子嶋流)を受けていました。

 その大和の壺坂寺はまた、貞慶と叔父の覚憲にとって大切な古刹でした。貞慶が尊重した法相の因明学や真言密教を究め、子嶋流(別名壺坂流)を創始した上綱真興ゆかりの寺です。そして、貞慶と覚憲の師である蔵俊が修行した寺でもあります。壺坂寺の年中行事をみますと、真言密教と法相宗の仏事が並んでいます。これは父貞憲(生西)の名前が記録に残っている大和の内山永久寺と同じパターンです。永久寺もまた、興福寺と醍醐寺の金剛王院の法流が交じりあっている寺です。

 ある意味で、山城の醍醐寺の真言密教の僧侶になった父が法相宗の影響を受けたと正反対に、大和の法相宗の僧侶になった息子が真言密教に深く影響された僧侶になったといえるでしょう。

2.高階氏のこと

 醍醐寺文書の「勝倶胝院千手堂由緒」によりますと、貞慶が快慶作千手観音像を安置する御堂の供養のさい、導師をつとめたとあります。その願主のひとり真阿弥陀仏という真言師になった女性は、貞慶の叔母の子です。彼女と同じように、貞慶の親類縁者が、多くこの御堂にかかわっていました。勝倶胝院の御堂のプロジェクトと同様に、家族ぐるみの支援のネットワークが他の記録に残っています。同じような現象は、別の分野にも見えます。例えば、貞慶の出身家族関係の唱導資料を丁寧にしらべますと、意外なほど縁者である高階氏生まれの願主を多く見出せます。(祖父信西の『筆海要津』、叔父澄憲の『言泉集』、従兄弟海恵僧都の『海草集』などにおいて)

 ただし、峯定寺の釈迦如来像の結縁者は、真阿弥陀仏という尼以外に、貞慶の親類縁者の名前を未だ見出すことがありません。

 この問題を取り上げる前に、貞慶の母親の出自が知られていないということを認識しなくてはなりません。残念ながら今のところ、その母の出について知る術がないと思いますが、祖母(貞憲の母)は高階氏の女性であることは確かです。彼女の子孫は信西一門の中の高階系といわれています。貞慶の恩師の興福寺別当覚憲や、覚憲が壺坂寺に遁世してから、後ろ楯になった兄弟弟子である信憲も(信西一門の)高階系統に属します。

 貞慶のまわりには、 高階氏の人間で、近年指摘されている貞慶の思想に影響があった興福寺別当玄縁がいます。しかし、玄縁の地位は高くても,その事績があまり歴史資料に残されていませんので、貞慶との関係は具体性に欠けています。

 峯定寺の釈迦如来像の結縁者にもどりますと、行守という名前が結縁文の梵字真言の後に記されています。この僧侶は、後に仁和寺の五智院という院家の主になった大夫法印行守に違いありません。五智院は、行守のために八条院の女房が建立した寺院です。八条院自身は、貞慶の般若台の維持に尽力しましたが、援助を惜しまなかったのは、女院だけではなく、彼女の女房の中には、貞慶の従姉妹の八条院高倉のように積極的に宗教活動に没頭した人がいます。行守の院家を建てたのは八条院冷泉局でした。
行守への援助は、もうひとつ、もっと身近な理由があります。それは、行守は八条院三位という八条院の女房の兄弟で、ふたりの父親は、貞慶が、興福寺のために勧進活動した時期に、その四恩院に舎利を納めた高階隆行(覚蓮)です。そのうえ、『菅芥集』にのっている願文によりますと、覚蓮の娘八条院三位は、貞慶と比定されている大智の僧侶の教えを聞いてから『瑜伽論』一部百巻を書写して笠置寺に奉納したとあります。

 こうした貞慶と八条院周辺の高階氏の人々との繋がりは、全くの偶然とは思えません。峯定寺の釈迦如来像の結縁者の中心人物である丹波入道盛実(醍醐寺の金剛王院の定意)の叔母は、高階隆行(覚蓮)の母親であり、 この女性は、盛実の叔母と隆行の母親のみならず『春日権現験記絵』において重要な役割をもつ藤原俊盛の姉妹でもありました。つまり、貞慶が関連した、今でいう文芸や美術作品には、高階氏の人々(とくに高階氏に生まれた女性)の存在が色濃くみえます。

(ところで、このような偶然がまた偶然を生むように、定意は真阿弥陀仏の兄弟房海の付法弟子になり、行守から仁和寺の五智院を引き継いだのは真阿弥陀仏の甥です。いくらか異なる観点からみますと、生西の松橋流を確立した元海大僧都の母親が、高階氏出身であることも意味あることかもしれません。高階氏の影が、あちこちにうかがわれます。真言密教と法相宗を考えますと、源運の金剛王院の原型であつた上醍醐の西光院は、林禅という興福寺の僧侶の房であった可能性が指摘されていることはまことに興味深く、今後の研究成果が期待されます。また、貞慶は、維摩会の竪義をつとめた年、彼が安養院内に住んでいたという記録があり、源運が定賀という弟子に伝法灌頂を授けたさい、上醍醐の安養院で行われているのですが、それは同じ場所をさしている可能性があることなど。)

 結論を述べる前にもう一つ加えますと、高階氏生まれの八条院三位は、以仁王と九条兼実との間にそれぞれ子供をもうけました。今までのややこしい話の輪が益々複雑になりそうですが、この子供達は、信西の妻の一人である紀伊二位の子孫系統と関係がふかく、高階系ではない貞慶の親戚との繋がりを視野に入れますと、さらに『平家物語』や慶派の仏師の作製活動問題へと拡大していくのです。

 以上の事柄を考え合わせみますと、貞慶上人の生涯や南都仏教への貢献を理解するには、醍醐寺と高階氏のルーツを考慮しなくてはならないと思います。ひとつひとつは、必ずしも厳然たる証拠にはならない偶然めいたことが重なるといいましても、貞慶の密教的なあり方は、醍醐寺との様々な縁から生まれたことは以上述べたように明白でしょう。そしてまた高階氏の人々との縁は、今後もっと調べる必要があるのはいうまでもありません。


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