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海住山寺五重塔扉絵の僧形はだれか? | 林 温

海住山寺の国宝五重塔は建保二年(1214)、解脱房貞慶帰寂の翌年に建立され、中には貞慶が後鳥羽天皇から拝領した舎利二粒に五粒を加えて安置した。おそらく貞慶存命中から企図され、後継者覚真によって竣工されたものであろうが、塔内装飾の細部まで貞慶の指図が及んでいたかどうかは分からない。

海住山寺五重塔初層には四方に観音開きになる扉が嵌められており、計八面になる各扉には一体ずつ尊形が描かれている。これら八体の尊名について、従来二つの説が提起されたが、四体の僧形については説が一致していない。

濱田隆氏は建久五年に造立された笠置寺般若台六角堂の厨子扉絵に描かれた十二体の尊像から四天王を除いた八尊が海住山寺扉絵像に相応すると推定され、梵釈および沙伽羅龍王と閻魔王の四天を差し引いた常啼菩薩・法涌菩薩・玄奘三蔵・阿難尊者の四体であろうとされた(1)。その後、福山敏男氏は南面西扉の錫杖をとる僧を仁和寺本高僧像(長寛元年銘)と図像が一致することから大迦葉とし、北面西扉の羽扇を持つ僧を大報恩寺木彫舎利弗像と類似することから舎利弗と考えられた(2)。その根拠として、笠置寺六角厨子は本来大般若経を納めるための厨子であるから常啼菩薩法涌菩薩が描かれるのは自然であるが、海住山寺五重塔は舎利すなわち釈迦を安置しているのであるから常啼法涌両菩薩はそぐわない、むしろ十大弟子中の舎利弗と大迦葉のほうがふさわしいとされる。たしかに、常啼法涌の二菩薩が海住山寺五重塔扉に描かれる根拠は薄いと思われる。しかし、それでは十大弟子の内からなぜ阿難・大迦葉・舎利弗の三人が選ばれたのかという問い、さらに玄奘がこれに加えられたのはなぜかという疑問にどのように答えられるのだろうか。

 僧形以外の尊像が描かれた五重塔東面と西面について先ず見よう。東面の二枚の扉絵については、梵天と帝釈天と考えられている。この二像については浄瑠璃寺吉祥天立像(元暦二〔1212〕年作)旧厨子絵(現在、東京芸術大学蔵)に描かれている梵天・帝釈天像と完璧に図像が一致しており、その図像は興福寺東金堂旧所在の定慶作木彫像(興福寺及び根津美術館蔵)や東京国立博物館蔵十六善神像等とも緊密な関係を持っていることを筆者はかつて論証した(3)。安置された舎利は釈迦と同体であるから、その脇士として両側に梵天と帝釈天を配することは自然である。大衣の下に鎧を着けている北側が帝釈天である。
 次に西面扉のうち南扉は、頭上から背にかけて龍を負っているので龍王であることは疑いない。貞慶が造立した笠置寺六角厨子扉絵には沙伽羅龍王が描かれていたが、これと対に描かれていたのは閻魔王であった。海住山寺五重塔の西面北扉の肥満した赤身像は左手に人頭幢らしき棒を?み、冠に「王」字をつけており、やはり閻魔王と推測するのが自然であろう。この一対像が笠置寺六角厨子に描かれていたことから、貞慶の意向に沿ったものであることが推測される。この龍王と焔摩天が選択された点については、例えば寿永二年閏十月二十五日における「如法転読大般若表白」(4)の表白の冒頭に「敬白三身一体釈迦牟尼如来」以下の諸尊を列挙し、十六善神王の後に続けて「難陀跋難陀等諸善龍王焔魔法王五道大神泰山府君司命司禄十二冥道三国伝燈諸大師等」と続けているのが参考となろう。龍王すなわち海中の王と焔摩天(閻魔王)すなわち冥界(地下界?)の王を代表者として選んでいるのであろうか。
 以上の四体については、濱田福山両氏ともに一致している。
 ところで、東京国立博物館蔵十六善神像は海住山寺五重塔扉絵と数体の図像を共通させることをかつて指摘した(5)。中で、常啼菩薩像については海住山寺本の玄奘に比定されている北面東扉像とほとんど同じ図像を用いているが、持物を経冊から柄香炉に替えていること、そしてこれは興福寺蔵伝笠置寺六角厨子扉絵の常啼菩薩が柄香炉を持物とすることと共通している。このことから、南都仏画の伝統として、祖師像において持物等の図像継承を重視していたことが偲ばれよう。ところで、これらの扉絵は開けたときに向かい合うように描かれており、塔中に安置される舎利を中尊として三尊構成をなす。それならば、阿難尊者に向かい合う僧はだれか、玄奘に向かい合うのに相応しい僧は誰か、と先ず問わねばなるまい。さらに、これらの四体の僧形が五重塔を荘厳する上でどのような意味を担っているのか明確にしなければなるまい。
 そこで、残る四体の僧形であるが、塔中に安置される本尊が舎利であることを重視しよう。すなわち釈迦が主尊である。釈迦の脇侍として一般的な僧形は阿難と大迦葉であろう。あるいは舎利弗と大目?蓮の組み合わせもある。南面東扉絵は濱田福山両氏ともに阿難であるとした。とすれば、向かい合う西扉は大迦葉像とするのが一般的である。この像は剥落のために詳細を欠くけれども、右手に杖のような黒い柄を持っている。福山氏は長寛元年銘高僧像(6)における迦葉像を一つの根拠とされた。
 ところで、興然『曼荼羅集』所載の法華曼荼羅(其一)に、敷物の上に坐す僧形で右手に錫杖を持っている大迦葉が描かれている(7)。法華曼荼羅においては、内院四隅の東北に大迦葉、東南に須菩提、西南に舎利弗、西北に目蓮がそれぞれ安置される。四体の図像は必ずしも諸本で一致しない。大迦葉と向かい合うのは阿難ではなく須菩提であるが、法華曼荼羅(其一)では興味深いことに合掌像で表されている。このような遺品としては唐招提寺本や太山寺本がある。それならば、阿難とされてきた像も須菩提の可能性があるかもしれないが、あえてこの説を採るならば残る二体が舎利弗と目蓮であることが要請されよう(8)。しかし、『曼荼羅集』所載法華曼荼羅(其一)においては、両像は左手で衣の端を握り右手を立てる姿と思われるし、『曼荼羅集』所載の法華曼荼羅の(其二)においては舎利弗が合掌像となっている。因みにこの図像は法隆寺蔵法華曼荼羅と一致し、長寛銘高僧像中の舎利弗と目蓮に合致する。
 舎利弗が登場することじたいは興味深い。というのも、福山氏が舎利弗と比定された北面西扉像は、上半身裸体で異形梵相ともいうべき相貌であり、いかにも釈迦初期の弟子である舎利弗にふさわしい印象を持つからである。しかし、法華曼荼羅を見る限り、羽扇ないし麈尾を持物とする舎利弗あるいは目蓮像はないようである。また、北面東扉像を玄奘と推定する根拠を否定して、目蓮とすることが妥当であるかどうかも慎重に考える必要があろう。南都の祖師遺品を見る限り、このような左手に経冊を持ち右手を立てる姿はおおむね玄奘を指示しているからである。以上のようにみてくると、法華曼荼羅との関連性を主張する根拠は薄弱といわざるをえない。
 視点を変えて、北面東扉像を玄奘とした場合、これと対をなす僧としてふさわしいのはだれだろうか。
 法相宗の立場からすれば慈恩大師基ということになろうが、慈恩大師の場合は両眼を見開き両手を組む偉丈夫という確固たる図像がある。法相宗曼荼羅等においては玄奘がその師戒賢と向かい合わせに描かれていることもあるが、五重塔扉絵に戒賢を特に取り上げる必要性があるのかどうか疑問である(9)
 『七大寺巡礼私記』によれば興福寺南円堂の扉あるいは壁面には「八宗祖師影」が描かれていたといい、玄奘と対になっていたのは天台大師像である(10)。これは治承の兵火で焼けてしまったが、再建された絵像の一部が現在の堂に嵌め直されて残っている。剥落甚だしく、残存状況から全体を伺うことは困難である。「八宗祖師」という伝を信じるならば、海住山寺五重塔扉絵に当てはめることは不適当であろう。
 玄奘三蔵といえば『大般若経』を訳したことが著名であるが、その他にも重要な経典を数多く訳していることはいうまでもない。玄奘を法相宗祖師としてではなく、訳経僧として見ればどうだろうか。玄奘はそれまでに訳されていた経を新たな訳語によって改訳するなどしたため、玄奘以後の訳を新訳と称し、彼以前の訳を旧訳と呼ぶこともある。旧訳の代表者といえば、鳩摩羅什である。例えば『般若心経』は鳩摩羅什訳が有名であるが、玄奘も訳し直している。両者の対比は筆者が恣意的に行っているわけではない。
 久安六年の奥書を持つ『三国祖師影』(大谷大学博物館)は勧修寺法務寛信所持本を写したものであるが、そこには密教や南都関連の祖師のほかに著名な中国僧の肖像も描かれている(11)。注目すべきは鳩摩羅什と玄奘三蔵が向かい合わせに描かれており、ともに経冊を手に持つ姿であることである(挿図)。玄奘は右手に経帙を繙いた経冊を持ち左手を立てている一方で、羅什は左手と右手の間に経冊を挟み持ち右手を立てている。玄奘の図像は南都で頻用された姿に近い。羅什の直前に描かれているのは数珠を持った終南山道宣であり、羅什とは背中合わせで顔を合わせないから両者が対になっているとは思えない。羅什には「晋秦朝鳩摩羅什三蔵」と記され、玄奘には「唐朝三蔵玄奘」と題記される。しかも、経冊を持つのはこの両人のみである。羅什と玄奘がここで取り上げられているのは「訳経僧」の代表として、特に旧訳と新訳を代表するものとして両者を顕彰するものであることは疑いなかろう。この『三国祖師影』は図像収集家として著名な玄証も写しており、『先徳図像』として東京国立博物館に収蔵されるほか、写本も複数知られている。特に、久安本原本の所持者寛信の勧修寺流を明恵高弁が継承していることは留意してよい。
 玄証本「先徳図像」の奥書に「以勧修寺大納言阿闍梨御房御本書写比校了」とあるが、この勧修寺大納言阿闍梨とは仁済のことであり(12)、寛信ー仁済ー玄証と法系をたどることができる。仁済は念範の弟子であったが、念範が寛信に嗣法したときに同時に受法したという(13)。念範の弟子として著名なのは事相家として知られる興然であるが、明恵は建久二年(一一九一)にこの興然から金剛界・胎蔵界・護摩を伝授している(14)。このように明恵が勧修寺流に連なることから『三国祖師影』の図像を知っていた可能性がある。後述のように、海住山寺五重塔を建立した覚真が信奉する明恵からなんらかの教示や示唆を受けたことが推測されるからである。
 それでは、貞慶と鳩摩羅什の結びつきについてはどうだろうか。ここで注目したいのは海住山寺に伝わる「覚真置文」である。これは貞慶を嗣いだ覚真が貞永元年(一二三二)に定めた海住山寺の規式三箇条である(15)が、そのうち「当山修学事」が重要である。ここでは海住山寺が戒律を学ぶべき寺であることを強調し、『梵網経古迹記』を修学し、慈恩大師基の『般若心経幽賛』や『法華玄賛』等四季の談義を続行すべき事を述べている。これらは先師貞慶の遺命であったり、覚真が貞慶の素意を酌んで始めたものでもあった(16)。南都戒律の復興者である貞慶が『梵網経古迹記』を重視することは当然であるが、『法華経』特に観音品が重視されていることは、貞慶晩年における十一面観音信仰が強く反映しているのであろう。『般若心経』は貞慶が晩年に千巻を書写して本堂内陣に安置した頗る重視した経である。
 そこで、鳩摩羅什との関わりを考えれば、先ず新羅の太賢撰述『梵網経古迹記』は鳩摩羅什訳『梵網経』二巻の註釈書である。同置書にみえる「心経幽賛」「観音品玄賛」ともに法相宗祖慈恩大師の書であるが、元となる『般若心経』は羅什旧訳と玄奘新訳それぞれがあり、両者の組み合わせは五重塔扉絵との関わりで極めて興味深い。「観音品」すなわち「普門品」を収める『法華経』の代表的な訳、『妙法蓮華経』訳者としての羅什の名声についてはいうまでもなかろう。こうしてみると、覚真が貞慶の遺命を奉じて修学すべきものとして特に重視した三つの書の本経典いずれもが鳩摩羅什訳であるという事実が浮かび上がるのである。これに興福寺法相学の祖師であり心経新訳者でもある玄奘(慈恩大師の師でもある)を対に配すことは、晩年の貞慶の思想の上からみても整合性があるといえよう。
 以上のことから、北面西扉像については鳩摩羅什である可能性が高いと考える。もとより貞慶あるいは慈心房覚真の意図は推測するほかないが、扉絵は開かれてこそ見ることができるし、開いた場合には塔中央の舎利を籠めた塔を挟んで左右から対峙する二体の尊像しか眼に入らない。とすれば、四方の尊形は四体一具のものとしてではなく一対ごとに独立した意味を担っていたとも考えられる。北面については、舎利を中心にその経説を漢訳した偉大な新旧の訳経僧、鳩摩羅什と玄奘が選ばれたと考えるのが至当と思われる。北面西扉像は中国僧ではなく天竺もしくは西域出身僧の風貌を表しているが、鳩摩羅什はインド出身の鳩摩炎を父に、亀茲国王の妹を母として生まれたとされるのである。

以上、さまざまに四体の僧形について可能性を探ってみた。四体を一具として意味を探るならば法華曼荼羅における四声聞を表したものとの見方が成り立つようにもみえるが、図像を全く一致させるわけではなく根拠に薄い。一方、阿難と大迦葉の一対は釈迦の脇士として適切であるとともに図像的にも可能である。もう一方の北面の一対像は東扉を玄奘と見るべきであろうが、これと対像としてふさわしいのは旧訳経者の代表者として鳩摩羅什と考える。そして、このような一対を選択する視点を持った人物として南都法相教学の代表的存在であった貞慶と、特に晩年の貞慶の遺志を尊重した覚真が想起されるのである。また、明恵から覚真が『三国祖師影』における玄奘と羅什を対に表す考え方を教示されたことも十分に考えられよう。なお、阿難と玄奘の比定については、興福寺蔵伝笠置寺六角厨子扉絵における阿難・玄奘像と図像や年齢層を一致させることも一根拠となるだろう。



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