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解脱上人と本堂旧壁画 |清水 健

はじめに  奈良国立博物館にはかつて海住山寺の本堂に壁画として安置されていた2面の板絵が寄託されている。1面は十一面観音が菩薩衆とともに来迎する様を表したもので、縦191.8センチメートル、横197.7センチメートル、もう一方は観音菩薩が住むという補陀落山を表したもので、縦190.0センチメートル、横202.0センチメートル、いずれも正方形に近いが若干横に長く、厚さ1センチメートルほどのヒノキ材の板を横に重ね、漆下地を施した上に白土下地を施して描かれており、四周には補強のための木枠がめぐらされている。
 かつては本堂の本尊・十一面観音立像の安置された宮殿の左右に、向かって右に補陀落山浄土図、左に十一面観音来迎図が、柱とその間に渡された貫の間に向かい合わせに嵌め込まれていたようである(※注1)。また裏板が当てられた上に漆喰が塗られていたようであるが、現在はいずれも取り外されている(※注2)。以前は堂の後ろに置かれていたともいうが(※注3)、遅くとも昭和18年には柱間に嵌め込まれていたようで(※注4)、ある時期に改変されたものとみられる。

1.本堂旧壁画の来歴  幸いに補陀落山浄土図の背面には、以下の墨書が認められている。

  奉図絵補陀落山
   于時文明五年(癸巳)六月下旬
   和尚慶継開眼供養導師
   奉行衆 良慶 重継 成継 宗英 慶俊
   絵師加賀守
   任阿弥陀仏 妙忻 信覚 妙覚 理潤法界塗
   施主津越連任   

 これによって本図が文明五年(1473)6月に、補陀落山図として描かれ、慶継を開眼導師として供養されたことがわかる。奉行は良慶、重継、成継、宗英、慶俊の5人、筆を執ったのは加賀守以下、任阿弥陀仏、妙忻、信覚、妙覚、理潤法界の都合6人とみられ、いずれも阿弥号や法号らしき名前であることから、絵仏師かと思われる。施主は津越連任で、連任その人の名は他に確認できないが、海住山寺周辺を本拠とした瓶原七人衆と称される土豪の一人と考えられる(※注5)
 現在の海住山寺の本堂は、明治元年(1868)の山津波で旧本堂が倒壊した後、明治17年(1884)に再建されたものである。現在の本堂は東を向いて立つが、江戸時代の名所図会等に表された本堂も東を向いて立っており、また本尊・十一面観音が「東向厄除観音」と呼ばれたことから(※注6)、江戸期の本堂も東面していたと思われる。記録をたどると『海阜遺編』所収の『海住山寺旧記』に、寛文二年(1662)に本堂が修補されたとの記事があるが、一つ前の五重塔の修補の記事(明暦三年=1657〜)と照らし合わせても、建て替えるほどの規模であったとは考えにくい。寛文四年(1664)には海住山寺を再興した解脱上人貞慶の450年忌が控えており、修補の月日が貞慶の忌日である2月3日となっていることから、遠忌に合わせた小修理とみるのが穏当であろう。それ以前には『海阜遺編』所収の『海住山旧記』に、康正三年・長禄元年(1457)本堂修補の記事がみられる。この時の経緯は定かではないが、長禄三年(1459)には釈迦堂と五重塔の修理が着手され(「奉施入海住山寺釈迦堂修理方并学習方興隆方諸種子米事」)、寛正四年(1463)には五重塔の屋根の葺き替えが終わっているとみられることから(「鳥衾瓦篦書」)、あるいは貞慶の250年忌に合わせてのことかもしれない。修理の規模はわからないが、現在の板絵が制作される契機になった可能性は否定されるべきではないであろう。
 これ以前には本堂の建立、修補の記録がなく、明確なことはわからないが、現在の板絵は長禄元年(1457)に修補を受けて以降の海住山寺本堂に安置されたもので、明治元年(1868)の山津波までは特に大きな変化を伴わず、伝わってきたものとみてよいであろう。
 なお、江戸期の『山州名跡志』、『山城名跡巡行志』には、堂内に法華経普門品の経意に基づく説相図を描くとあり、これを法華経曼荼羅に当てる見解もあるが(※注7)、海景に舟を添える補陀落山浄土図、あるいは普門品に説かれる海難救済に図様がよく似る十一面観音来迎図の舟の部分が曲解された可能性も否めない。
 ところで、『海阜遺編』所収の真敬親王手沢本と称する『海住山寺縁起』によれば、保延三年(1137)に火災によって全山焼失して以来、貞慶が笠置寺より移り住み再興を果たす承元二年(1208)まで主要堂宇を失っていたといい、あるいは本堂があったとしても仮のものであったのかもしれない。貞慶入寺の時点であった本堂と、その後のものが同一かどうかは推測の域を出ないが、元仁二年(1225)に行われた貞慶の十三回忌の願文には、「構本堂之中宝帳之傍北則安観音浄刹之藻?、便上人之旧功也、南是立霊叡往生之画図、寧非遺弟之新写哉、」とあって(宗性写「一切経供養式并祖師上人十三年願文」)、既に本堂が整備され、内陣の北側に貞慶が作った「観音浄刹之藻?」、すなわち観音浄土図(補陀落山浄土図)が安置されていたようである。またこの記述からは南側に霊叡往生図が遺弟によって新たに描かれ安置されたことがわかる。このうち、補陀落山浄土図の後裔が、おそらく文明五年(1473)によって新たに描かれた補陀落山図に当たるのであろう。これと対になるのは、庵室に端座する僧侶を十一面観音が菩薩衆とともに迎える様を描いた来迎図であるが、これが庵室の僧侶、すなわち霊叡が往生する様を表したであろう霊叡往生図の後裔となるのであろう。  以上のことから、鎌倉時代に貞慶及びその弟子によって描かれた同画題の先行する絵が既にあり、室町時代にこれに代わるものとして、新たに現在残る板絵が作られたものと推断されるのである。

2.本堂旧壁画の内容   次にこの2面の板絵の画題に及び成立年代ついて確認しておきたい。
 「上人之旧功」とされる補陀落山浄土図は、中心に海中に屹立する補陀落山の山容を大きく表す。補陀落山の山上には観音菩薩の住む石天宮を大きく配し、その右手に観音菩薩の法莚が敷かれ、諸衆の聴聞する様が表される。山中には瀧が奔流となって流れ落ち、楼門や赤い欄干の橋なども描かれる。また僧侶の姿や、香炉や華瓶の置かれた机、白象、唐獅子などが随処に添景のように表されている。山下は白い洲浜が広がり、山裾に殿舎が点在する。山下や洲浜には騎旅の一行や老人と童子の二人連れ、その他宝珠を持したり笈を負ったりして道行く人々が表され、汀には舟が停泊している。補陀落山の山上の左には太鼓を背負った雷神の姿も認められる。
 こうした図様については、南都を中心にいくつかの作例がある補陀落山浄土図と共通する部分が多く、関係が注意される(※注8)。また貞慶が海住山寺に止住した翌年に当たる承元三年(1209)に記した『値遇観音講式』は、まだ笠置寺にあった建仁元年(1201)に起草した3段からなる『観音講式』を増補し、7段で構成するものであるが、その記述は『不空羂索神変真言経』や『大唐西域記』、『華厳経』などを引きながら、補陀落山の描写に多くの段を割いており、海住山寺に移った貞慶の興味が那辺にあったかをうかがわせる内容となっている(※注9)。その記述の多くは現存する板絵の補陀落山浄土図とも合致しており、山の頂が9つに描かれる点などは『不空羂索神変真言経』を忠実に踏襲していることから、板絵が経軌に基づいて描かれていることは認められよう。
 以前より指摘されるように、板絵補陀落山浄土図は文明五年(1473)の作としては古様を示しており、先行する祖本の存在を想定することは容易である。晩年の貞慶が経軌を集成してイメージした観音浄土を視覚化したのが貞慶在世中に制作された補陀落山浄土図であり、それを受け継ぐのが板絵の補陀落山浄土図であることがこの点からも確かめられよう。
 もう一方の「遺弟之新写」とされる霊叡往生図は、画面左上の補陀落浄土から右下の庵室に端座する僧の許に、大海原を越えて来迎する十一面観音とこれを囲繞する23奏楽菩薩を表している。広々とした大海を斜め構図で降臨する十一面観音の目からは光芒が放たれ、合掌する往生者の膝元に届いている。画面の対角線を光芒が貫いており、緊張した構図を作り出している。虚空には飛天や楽器が舞い、方形の色紙形らしきものも右上方に表される。また大海中には、往生者の左手水平方向に孤舟が浮かび、二人の僧侶の姿が認められる。往生者の坐す庵の建つ山は、海岸の懸崖に五輪塔が配され、山腰には一庵があり、山上にはまた別の堂舎と鐘楼が松や色づいた楓、蔦とともに描かれている。
 先にみた『値遇観音講式』には、やはり7段目に霊叡についての記述があり、『続高僧伝』を引いてその往生の様が語られている。また「古今往生蓋只睿師一人哉」と述べられており、貞慶が霊叡の補陀落往生を特に重視していたことがうかがえる。遺弟が師の十三回忌に際し、師の往生の様でなく霊叡の往生の様を表したのは若干の疑問も残るが、あるいは貞慶の生前より制作が企図されていたことによるのかもしれない。谷口耕生氏が指摘するように、当然この霊叡には貞慶のイメージが重ねられているとみてよいであろう(※注10)
 ところで海上の舟に乗る二人の僧については、建仁元年(1201)5月に草された三段の『観音講式』(奈良国立博物館蔵)の奥書に記される賀登上人についての挿話が注目される。これによれば、阿波国の賀登上人は補陀落山に行くことを希求し、長保三年(1001)8月18日に室戸岬から弟子一人を伴って、固い決意で南に向けて船出したという。本図に描かれた僧侶と小僧らしき二人組はこの説話と符合しており、本図には霊叡往生とともに賀登上人の堅固な補陀落渡海の決意が描かれているとみてもよいであろう。
 なお、『値遇観音講式』や『観音講式』にはただ観音とのみしか記されないが、本図で十一面観音が表されるのは、春日曼荼羅の諸本や米国・ボストン美術館蔵十一面観音来迎図に表されるように春日四宮の本地仏としての観音菩薩が企図されているからであろう。
 さて、本図の図様は一見して阿弥陀二十五菩薩来迎図の翻案だと理解される。菩薩衆が23尊なのは、あるいは二十五菩薩から観音と通例合掌して表される勢至を抜いているからかもしれない。ただし京都・知恩院蔵阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)に代表されるこうした辺角的な斜め向きの立像の来迎図の成立はやや遅れるとの説は以前よりあり、原本の成立を貞慶の十三回忌時点に遡らせるのに慎重な意見は根強い。筆者も以前に菩薩衆は室町時代に本図が再造された折に加えられたもので、それ以前は貞永元年(1232)成立の奈良・法隆寺金堂西の間安置の阿弥陀如来坐像台座上座正面に描かれた観音来迎図のようなものを当初の図様として想定したことがある(※注11)。しかしながら、熊谷直実所持と伝えられる京都・清凉寺蔵迎接曼荼羅には既に立像で斜め構図の二十五菩薩来迎が表されており、先に挙げた法隆寺金堂西の間の阿弥陀如来坐像の台座や11世紀に遡る平等院鳳凰堂壁扉画のように広大な山水景観中に来迎の様を表す構図が成立していることを勘案すれば、原本の成立年代を元仁二年(1225)とする説も強ち不当とはいい切れないように思われる。
 以上より、板絵十一面観音来迎図の原本成立年代については貞慶十三回忌の折であった可能性を排除しないものとし、辺角的構図や大観的な山水描写には、補陀落山浄土図と同様、中国・宋代の絵画表現を受容した可能性を指摘しておきたい。また補陀落山浄土図が古様とされ、十一面観音来迎図が新様とみられる点については、貞慶の生前と十三回忌という時間差を表現様式の差異が生ずる原因の一つとみることを提案しておきたい。
 このように、本堂旧壁画の内容はいずれも貞慶十三回忌の供養願文に記されるように、観音の住所・補陀落山浄土と霊叡往生図であることが確認できたと思う。そしてその制作年代については、水波や山、霞にみられる形式化した表現や生硬な観音二十三菩薩の描写などから、年紀に記される15世紀後半とみてよいように思われる。

むすびに

 以上のように、海住山寺本堂旧壁画は、貞慶十三回忌の願文にみられるように、観音浄土・補陀落山と霊叡の往生(観音の来迎)を主題とし、貞慶の在世中及び十三回忌の折に作成された絵を祖本として、文明五年(1473)頃に制作されたことが明らかにできたように思う。また、文明の新写に当たっては、長禄元年(1457)に行われた修補が関係している可能性を提示した。そして画題については『値遇観音講式』に依拠する可能性を示し、十一面観音来迎図については、三段の『観音講式』の奥書に記される賀登上人の逸話が盛り込まれている可能性を指摘した。
 ところで、本堂旧壁画の安置形態については、2面がほぼ同形同大であること、壁画としては若干小振りであることから、これらが仏後壁画(来迎壁)であった可能性が指摘されており(※注12)、例えば神奈川・称名寺本堂の仏後壁画では、前面に弥勒来迎図を、後面に弥勒浄土図を描いている。称名寺では同じ板の表裏に描かれるのに対し、本品では完全に2面に分かれており、先述のように堂の後方に置かれた時期もあったようであるが、貞慶十三回忌願文にも記されるように、当初より東面する本堂の内陣の左右に相対して安置されてきたものとみてよいであろう。補陀落山浄土図の損傷が激しいのは北側に安置した場合、画面が南を向くことによるものではなかろうか。
 なお、仏堂内に来迎図と浄土図を併置させる事例としては、現存はしないものの、釈迦浄土図と弥勒等の来迎を描いたという建保三年(1215)に供養された興福寺四恩院十三重塔の堂内画が知られており(『大乗院寺社雑事記』文明十三年〈1481〉正月4日条、菅家本『諸寺縁起集』)、貞慶と近いところでの造営だけに一層の興味を掻き立てられる。



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