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海住山寺縁起絵巻の製作過程について | 芝野康之

 海住山寺の中興の祖である解脱房貞慶の八百年忌に際して、過去の御上人の遠忌法要の事業から、縁起製作の様子を見ていきたい。 現在海住山寺には、寛文二年(1662)二月の中興開山解脱上人四百五拾年忌の事業として海住山寺・地元檀家衆が興福寺大乗院門跡真敬法親王に依頼して製作された『海住山寺縁起絵巻』上下二巻が伝わっている。この縁起絵巻は、絵を京狩野の絵師・狩野永納が担当したことでよく知られているが、現在の装丁になるまでに数年をかけていることから、その経過をたどってみたい。
この縁起が出来る過程は、解脱上人四百五拾年忌法要のいきさつを記した寺蔵の『海住山寺記』延享二年(1745)書写や『海住山旧記録』安永五年(1776)書写によって知ることが出来る。 
まず、寛文元年(1661)極月六日、海住山寺塔頭の宝篋院栄賢が瓶原の朱雀宅を訪れて、来年二月三日の解脱上人四百五拾年忌の打ち合わせを行い、本尊十一面観音立像の御開帳準備、本寺興福寺への窺いをどのように進めるかなどを相談している。それを受けて、同月十四日に海住山寺寺中とも相談したうえで、朱雀氏が大乗院門跡を訪問している。この時は門跡が福智院にいたことから、福智院と朱雀氏との縁もあって坊官を通じて書状を送り、翌年正月七日に海住山寺の宝篋院・実報院・朱雀平四郎が参殿して、当月十八日より命日の二月三日まで御開帳のことを許されている。
解脱上人四百五拾年遠忌法要に伴う御開帳を知らせる立札は、「奈良高畠、同猿沢釆女前、郡山、手掻門、笠置、かも、木津、玉水、長池、京五條橋、四條寺町、一條之辻、伏見豊後橋」に正月七日付で建てるという。十二日には、年頭のあいさつを兼ねて京都代官の五味藤九郎へ御開帳のことを報告している。
海住山寺の縁起について寺側は、これまでなかったと言い、
「古談共取集縁起アミタテ大乗院様・新御門跡様へ申上被為染筆絵縁起仕り、寄進絵ハ京町人書之、近所老若所望故平四郎宅ニ而披見イタサセ申候、紙ハ鳥子、表紙茶色・緞子、内金襴浅黄・サナダ打、軸黒柿ためぬり、箱ニ入」 とあって、事前に縁起の題材となるような古事談などを取りまとめ、大乗院門跡に依頼してあった様子がうかがえる。十七日になって「縁起持参、橋柱寺本寂坊登山」と現在の大智寺(橋柱寺)本寂和上が完成品を海住山寺に持参しているが、この時点で絵も入った完成品が引き渡されている。ところが、現在の縁起絵巻では、下巻末尾に絵を描いた狩野永納の次のような奥書が記されている。

右縁記者、応寺僧里人之需、事跡形勝精問詳尋、以不顧愚筆、新図之者也、寛文四年甲辰十一月廿三日 狩野縫殿永納 判 [静山](角印)

この奥書によれば、寛文四年(1664)に「新図之者也」とあることから、寛文二年の遠忌法要の際に大乗院門跡よりもたらされた縁起絵巻は、現在のものとは異なっていたようで、さらに絵も狩野永納ではではなく、「京・町人」が画いた別物であった可能性が強い。装丁も現在のもとは異なっていることから、寛文二年本はその後絵師を変えて作り変えられたか、別の縁起として作られたことが考えられる。 縁起として海住山寺の記録類などに収録されているものを探してみると、二種類の伝本があることがわかる。いずれも解脱上人四百五拾年忌の法要を継起として作られているが、 『海阜遺編』前篇(寺蔵の記録。『加茂町史』第四巻資料編1所収)に収録されている「海住山寺縁起」は、興福寺大乗院門跡真敬親王の作とするが、基本的な筋立てはほぼ同じだが、歴史的な流れを重視する内容となっていて、文章そのものも異なっている。
『海阜遺編』の注釈に
「此ノ縁起ハ稿本ノ写シナリ、正本別ニアリ、真敬親王ノ手択ナリ」
と記されている。これが寛文二年に海住山寺にもたらされた縁起であろう。もちろんこの記録には絵は伴っていない。 『海阜遺編』前篇には続けて、正徳元年(1711)の解脱上人五百年忌法要の記事が掲載されている。
  • ○正徳元辛卯霜月十二日、西方院教順此時木津千童子花臺院ニ住ス・不動坊定與、南都一乗院ニ到テ海住山縁起拝領、取リ次キ中川采女、於竹間、二条寺主法印・内侍原刑部卿法印被渡之、内侍原ノ云、巻頭巻軸ハ先門主真敬ノ御筆跡ナリ、其ノ外ハ院家衆・公家衆ノ手澤ナリ、海住山典価ノ鴻宝タルベシ、各/\難有可被存、是則當門主尊昭ノ仰也ト云云、海住山繪縁起ノ奥書ニ云ク右キ縁記ハ者、応シテ寺僧里人ノ之需メニ、事跡形勝精ク問ヒ詳カニ尋テ、以テ不顧愚筆ヲ新ニ図スル之者也、寛文四年甲辰十一月廿三日 狩野縫殿永納 判
  • ○一乗院真敬 号登美宮、又号正覚二品親王、後水尾院第二十八ノ御子、母ハ新中納言ノ局園基音卿ノ女、明暦四年六月九日親王宣下、御名字常賢、万治二年二月四日得度、寛永三年七月七日於テ京都ニ遷化五十八歳、号ス三菩提院ト、
  • ○因ニ記ス、親王宣下以後ノ得度ヲ入道親王ト申ス、得度以後ノ親王宣下ヲ法親王ト申ス、入道親王ハ規損ナリ、
  • ○一乗院尊昭 号ス多喜宮、仙洞識仁第二十二ノ御子、母ハ蔵式部局、今城権中納言藤定淳卿女、真敬ノ資、宝永六年三月廿二日親王宣下、御名字庶賢、同年四月廿二日得度、 一、絵縁起上ノ巻者、海住山寺国分寺之縁起、下ノ巻者、解脱上人慈心上人之行状也、
さらに、『海住山寺記』の末尾の記事に、
  • 一、縁起 右 大乗院様信雅公被為染御筆候ヘ共、文段不宜絵師も、被為丁絵狩野縫之介永納ヲ九條様御家来朝山民部大輔肝煎ニ而、書文段ハ一乗院宮真敬親王へ以玉 林院内侍原治衛門ヲ申上候、其後十ケ年茂不被染御筆、此度就開帳、序跋斗被染御筆、海住山へ直ニ被遣候、
とあって、「文段不宜絵師も」という事態が起こっていたことを記録している。この結果寛文四年に狩野永納が絵を仕上げて奥書を記したものが正徳元年に一乗院より拝領した現在の縁起絵巻であった。
 中興開山の遠忌法要に際して縁起絵巻作製のようなさまざま事業が行われてきた様子の一旦を垣間見てきたが、寺院の長い歴史の中で多くの文化財を伝えていくための努力を知ることの出来る記録も多い。とかく開山中興の強烈な個性に目が奪われ、それを伝える多くの資料がどのように継承されてきたのか疎かにされる傾向が強いが、これらの先人たちの仕事も忘れてはならない重要な課題であろう。


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