木造僧形坐像 (画像:奈良国立博物館提供)
五重塔に隣接する小堂に安置されていた僧形像で、『大和古寺大観』ほか当寺に関する文献に紹介されたことがないが、貞慶死後、跡を継いだ覚真が貞慶十三回忌までの間に建立した七間食堂に安置する像として造らせた賓頭盧尊者像にあたるとみられ、寺史上に重要な像として注目される。
概要は以下の通り。像高70.0�p。老貌で眉が隆起し末端が垂れる。胸には胸骨・肋骨が浮き出る。法衣・覆肩衣・袈裟を着ける。法衣は右前打合せで袖付き(袖先端は後補の裙先材にかかるが、両足部から刻み出される袖内にU字の衣文を表すことから当初より大袖であることが判る)、袈裟は左臂に掛かり背面を覆い、右脇腹から正面に回り腹部を覆い、末端は左胸前で、背面に取付け左肩から垂下する紐で吊る。覆肩衣は右肩から右上膊にかけて覆い、背面では袈裟下層にたくし込まれ、正面でも脇腹で袈裟下層にたくし込まれ前膊内側に入り膝外側に出る。左手は臂を曲げ胸下の高さで掌を前に向けて立て、右腕は臂を曲げ右膝上で掌を左にして全指を握る(ただし両手首先は後補)。右足を上にして跏趺坐する。
針葉樹(檜か)材製の割矧造りで玉眼を嵌入する。頭体幹部を通して一材より彫出し、前後に割って内刳りし胸部肉身を含む頭部を襟際の線で割り離す。首付根を含み地付きに至る体部背面に背板一材を当てる。左右肩外側部はともに主一材の後方に小一材を足し、また腰脇に小三角材を足す。両足部は横一材。左前膊は袖を含み主材一材の上方に小一材を足し、右前膊は一材。主材・背板材・左右肩外側部材・両足部材を通して内刳りし、刳り面は丸刀で浚え素地のままとする。
後補部は前記のほか両耳、肩上面の主材後半、首枘後方に嵌める小材、玉眼、表面の古色塗りなど。像内腰部に「細工京七条大仏師吉次/再興願主/当寺大門之坊尊映法印欽言」と記す修理銘札が打付けられる。面部などかなり風化が進み、風雨の吹き込む環境に置かれていたことを想像させるが、保存状態は意外によく、失われやすい鼻先や唇も当初の形をとどめる。
「元仁二年海住山上人御房十三年追善願文写」には建暦三年(1213)の貞慶示寂から元仁二年(1225)の十三年忌までの間に覚真により行われた造営のひとつとして「建立七間食堂一宇、奉安置賓頭盧尊者像一体」とある。本像がこの賓頭盧像にあたるとみられる。その根拠となるのは円成寺に伝わる文永七年(1270)尭慶作の聖僧像が、袈裟の付け方が異なる以外、老相で眉尻の垂れる面貌や両手の構えに加えて、両足部に舌状に衣がかかる形式まで形姿の特徴を同じくすることである。円成寺像は造像銘に「忍辱山食堂安置像也」とあることから食堂所安の聖僧像であることが知られる。
本像は写実を踏まえた堅実な作風で、体軀は肩幅が広く、胸腹に堂々とした厚みが与えられる。衣のひだは深浅を付けて自由な流れを表し、各所に枝分かれし、あるいは袋状に畳む衣文が配される。後者は運慶派が好んで用いた衣文であり、作者は同派の仏師に求めてよいであろう。分厚い側面観や右足先が衣にくるまれるさまの表出、左前膊に掛かる袈裟末端の外側面にV字を重ねる衣文を表すなどの点には、作者を運慶に比定される六波羅蜜寺地蔵菩薩像に通じるものがある。
聖僧供養は本来、座のみ設けて勧請するという儀礼だったのが七世紀中国で形像を安置する形態が登場した。最澄は『顕戒論』などにおいて、中国で不空の奏を受けて出された天下寺院の食堂中に賓頭盧の上に文殊師利の形像を置いて上座とせよとする制を根拠として食堂への文殊安置を主張し、経典には賓頭廬像を造ることを書いておらず、ただ浄座を敷設することが述べてあるのみであり、従って現在の諸寺に置くところの上座僧の像は実は文殊であるのを代々伝わる間に誤って賓頭廬と呼んでいるのだと弁じている。この言から食堂に賓頭盧を安置する風習がこれ以前より存在したことが知られる。記録にみえる聖僧像の初例は『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』(天平十九年〈747〉)の記載「聖僧一軀」で、現存作例としては岡寺に義淵僧正像として伝わる像(八世紀後半)が最も古く、東大寺二月堂食堂に安置される塑像も補修が甚大だが同じ頃の作とみられる。
聖僧は住僧たちの上座として彼らの持戒に欠かせない存在であり、覚真による食堂の建立と本像の造立安置が貞慶の後を受けての戒律道場としての整備の一環という意味をもっていたことはいうまでもない。本像は眉尻の垂れる老貌やあばらの浮き出た胸に聖僧像としての特色を示しながら、顔立ちに胡貌梵相(インド・中央アジア人の顔立ち)と称される異国風は抑えられ、また服制を同時代の僧のそれに近づけて表されており、そこに認められる僧たちにとって身近な存在としての現実感に、古代聖僧像の形式及び表現の鎌倉時代らしい解釈をうかがうことができる。
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