海住山寺木造四天王像について
近年寺内より発見され、保存修理を終えた四天王像である。現在は奈良国立博物館に寄託されている。持物や岩座、多聞天の邪鬼等を除き、全てではないが、金銅製の頭光(円光)や冠盾ノも当初のものが残り、像表面の美しい彩色とともに、保存状態はきわめてよい。
持国・増長・広目・多聞天の順に東・南・西・北の方位に対応し、その身色は緑色、赤色、白肉色、青色に塗り分けられている。またその形相を見ると、
持国天は右手に五鈷杵を、増長天は左手に戟、広目天は左右の手に巻子と筆、多聞天は左手に宝棒(新補。戟であった可能性もある)を持ち、顔は、持国天と広目天は像から見て左斜め方向、増長天と多聞天は右斜め方向に向けている。
ところで、聖武天皇の勅願によって建てられた奈良・東大寺大仏殿の内部には、本尊盧舎那大仏のほか、両脇侍の観音・虚空藏菩薩、そして四天王が安置されていたが、治承四年(一一八〇)の兵火に大仏殿が罹災した際、大仏は大破し、二菩薩・四天王は焼失してしまった。これらは東大寺大勧進俊乗房重源の尽力によって再興されたが、戦国時代も末期の永禄十年(一五六七)、戦火によってまたも失われ、四天王については広目・多聞天の二躯こそ造立されたものの、持国・増長天は頭部が造られたのみでついに完成しなかった。
鎌倉復興期の大仏殿諸尊の像容については、幸いにもこれを伝える文献がある。醍醐寺に伝来した弘安七年(一二八四)に書写された「東大寺大仏殿図」がそれで、四天王像に関しても、各尊の本体および邪鬼の身色、持物や顔の向きに加え、担当した仏師の名が明記され、復原的に考察するよすがとなる。そして海住山寺像はほぼ完全にこれに一致し、大仏殿四天王像の忠実な模像、すなわち大仏殿様四天王像であることがわかる。もちろん原像は四丈三尺の像高を誇る巨像であったのに対し、本像のサイズははるかに小さく髪際高にして約一尺にすぎない。
大仏殿様四天王像は南都とその周辺地域を中心にある程度まとまった数の遺品が点在するが、そのうち現存最古の作例は和歌山・金剛峯寺像である。像内から発見された文書に建久ないし建仁の年号が見いだせ、十二世紀最末から十三世紀最初の制作と目され、かつ広目天像の足に仏師快慶の刻銘が認められ、快慶工房の作と考えられる。この金剛峯寺像と海住山寺像とを比較すると、たとえば広目天像の胸甲の折り返しの付いた特徴的な形態や両袖の翻るかたちが共通するし、持国・増長天の二躯では袴が膝下で脛甲の中に入るのに対し、広目・多聞天では脛の半ばまで袴が脛甲の上に垂れる点なども二組の四天王像で一致する。つまり、海住山寺像は金剛峯寺像と並び、一連の大仏殿様四天王像のなかでもとくに原像、すなわち大仏殿像に近い形相を有すると考えられるのである。
さて、海住山寺の四天王像の造立に関する記録は、残念ながらこれを今見いだすことができない。が、同寺五重塔に安置されていたのではないかとする説があり、最も蓋然性が高いと考えられている。
海住山寺の五重塔の建立については、同寺の古文書のうち「承元二年九月九日貞慶自筆仏舎利安置状」および「建保二年二月三日覚真仏舎利安置状」の二通の文書によって、次のような経緯が判明する。
海住山寺中興の祖であり、釈迦信仰を鼓吹し、戒律の復興につとめた高僧として名高い鎌倉前期の解脱房貞慶は、承元二年(一二〇八)に笠置寺から海住山寺に入った。彼は同年九月七日、河内国交野新堂において後鳥羽院より拝領した二粒の仏舎利(一粒は東寺、一粒は唐招提寺伝来)を、二日後の九月九日に海住山寺に安置する。ただしその安置した堂宇は不明である。しかしその後の経緯を見ると、貞慶は仏舎利の奉安の場として塔の建立を企図したと思われるが、その完成を見ることはかなわなかった。没したのは建暦三年(一二一三)二月三日である。
建保二年(一二一四)二月三日、すなわち貞慶の一周忌当日に、高弟であり、中興第二世となった覚真が、先師の相伝した二粒に五粒を加え、七粒の仏舎利を五重宝塔に安置した。このことは現在の塔の完成をも意味していよう。
さて四天王像だが、まずその法量は、塔の初層中央の厨子内に舎利塔を中心に安置されたとみることが無理ではない。次にその様式についてはどうか。
五重塔建立に相前後する時期に造られた武装神将形に、波夷羅大将像の足墨書銘により建永二年(一二〇七)頃の成立と考えられる奈良・興福寺東金堂十二神将像、そして持国天像の台座墨書銘によって建保五年(一二一七)頃の制作と目される同・円成寺四天王像があげられる。海住山寺五重塔の建立はちょうどその間のことである。詳しい考察は省くが、海住山寺四天王像には、上にふれた西暦一二〇〇年前後の金剛峯寺像に認められた体躯の厚みや下半身の重量感はすでになく、細身の上半身、すらりと伸びた脚部など、円成寺像に共通するものである。一方、円成寺像に胚胎しつつある若干硬化したような人形的な表情はまだ海住山寺像には見いだせず、顔の筋肉のしなやかな盛り上がりはどちらかといえば興福寺東金堂像に近いといえるだろう。もっとも、東金堂像は十二躯からなる群像であり、大仏師の統率下ではあったろうが各像は分担制作されたとみられ、各担当者の個性にもとづくと思われる作風の差が群像としての変化をつくりだしている。そのなかで伐折羅大将の顔貌表現は、卵形の輪郭ややわらかみのある筋肉表現が海住山寺像に通ずるものであろう。ともあれ、興福寺東金堂十二神将像、円成寺四天王像の、ともに慶派仏師が関わったと推測される武装神将形との比較から、海住山寺像が同寺五重塔が落慶したであろう建保二年頃、やはり慶派の仏師の手によって造立されたと考えることに矛盾はない。本像の制作開始時、貞慶がまだ存命であったか否かは微妙なところだが、仏舎利の守護神としての本四天王像の造像安置が、貞慶の意図によっているとみなすことは可能と考える。
ちなみに、上記「大仏殿図」によれば、殿内向かって右手前の持国天と向かって左手前の増長天は、お互いに内側に向き合っていたことが判明する。その目で海住山寺の四天王像を見ても、持国天は顔および視線を左(向かって右)に、増長天は右に向けており、両像が通例のように正面向きに安置されると、拝者から完全にそっぽを向いた状態になる。しかしこれが互いに内を向き合うとなると、求心的に視線が拝者側に向いてくるのである。よって五重塔初層厨子内にあってもこの二躯は内側を向き合い、後方の広目・多聞の二躯についても、やや斜め向きの安置法をとることにより、統一的・求心的な厨子内空間を形成していたものと思われる。