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若き日の貞慶 〜興福寺時代の貞慶の信仰〜|新倉 和文(龍谷大学講師)

 笠置遁世以後は貞慶の信仰を裏付ける史料が多い。遁世前の貞慶の信仰は余り知られていない。今回は興福寺時代の貞慶について書いてみよう。一番注目されるのは、『溪嵐拾葉集』という書に引かれた「道心者十六徳」である。「解脱房作」と明記されている。(解脱房とは貞慶のことだが、浄土宗西山派の証空も若い頃、解脱房と号していたが、貞慶と重なったため善恵房と改名した。)
  「十六徳」のいくつかを紹介すると、「舎屋を構えざれば、失火の難無し」あるいは「財産を貯えざれば、盗賊の厄無し」(財あれば、おそれ多く)など「方丈記」を連想するものもが多い。また「主君に仕えざれば、祇候の煩い無し」(人の奴たるものは、賞罰はなはだしく、恩顧あつきを先とす)また「妻子を帯せざれば、鍾愛の苦を失す」(もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし)などもそうである。
[注]「 」は「道心者十六徳」、( )は「方丈記」からの引用である。

この作が興福寺時代と分かるのは、中に “ 官位を望まざれば、公家の請に漏る。 ”  あるいは “ 学匠を立てざれば、論談の恥無し ”  とあることだ。官位の昇進を望むならば、公家の仏事への請へ応えなければならず、学匠(学生)つまり学問僧として生きていくならば、談義や論義でいい負かされて恥をかくこともあった。当時の興福寺の僧侶達の心の内を垣間見ることができて面白い。因みに、『古今著聞集』には、貞慶が壷坂僧正(覚憲:貞慶の師、晩年壷坂に隱居)の下に湯治に行った際、ある僧に法相教学の文義を問われた時に  “ いにしへは文見しかども白雲のふかき道にはあともおぼえず ”と「昔は学問をしたが、今は全く覚えていません。」と問答を避けた説話が載せられている。
 さて本題に戻ろう。「道心者十六徳」には、驚くことに阿弥陀信仰が記されているのである。
 “ 称名を懈(おこた)らざれば、弥陀の摂を蒙る。 ”  称名念仏をすれば、弥陀の引摂を受けると貞慶は書き記している。貞慶は法然浄土教を批判した立役者なのだが、興福寺時代は阿弥陀信仰つまり「発遣釈迦、来迎弥陀」という、法然と同じ信仰を持っていたのである。近年発見された『観世音菩薩感應抄』『安養報化 上人草』などによって、法然と同じ地平に立っていたことが分かってきたのである。やがて専修念仏批判へ転じていくが、それは外側から冷徹になされた批判ではなく、自らも信じた者ゆえの批判、つまり、厳しさと悲しみとが入り交じったような切実さが感じられる。
 確かに「興福寺奏状」を書き記したが、法然に対しては「上人は智者なり、自らは定めて謗法の心なきか」と弁護の言を一言入れている。貞慶の師覚憲、その覚憲の師であった蔵俊も法然を「智恵深く達すること、言語道断(言葉で言い表せない)」と絶賛し、毎年供物を送ったという。また誓願寺の寺主であった蔵俊は、「上人を宗祖と仰ぎ」それから法然の弟子証空上人・円空上人、相継いで誓願寺で浄土教を弘めたと伝えられる。(誓願寺縁起)恐らくその蔵俊の影響を受けて、貞慶も阿弥陀信仰を持っていたのであろう。
 晩年、海住山寺では観音信仰と阿弥陀信仰が両立される。海住山寺の本堂の修造のための勧進文の中に

観音の首の上に本師(阿弥陀仏)の尊儀を戴く。
観音の名の中に弥陀の密号を兼ぬ。

とあり、観音を礼すれば、同時に観音と阿弥陀仏の二仏に向うのと同じで、観音の名を唱えれば二聖を念ずることにもなる、と記しているのである。一時期、専修念仏批判から弥陀信仰を消し去った貞慶であったが、晩年には阿弥陀信仰を観音信仰に包摂するのである。若い時の自らの信仰を取り戻したのであった。
 最後に、十六徳の一つ、「聖衆を離れざれば、天魔の妨げを停む」に触れておきたい。天魔とは、第六天魔王のことである。仏法を障碍する魔王は、治承四年の南都焼討という国家を滅亡へ導く社会的面と、僧侶の内面へ慢心などを引き起こす心理的面の二つの作用があった。貞慶の最も恐れたのは後者で、特に「内外欺誑の過(とが)」に苦しめられた。遁世僧への周囲の期待と内面に起こる慢心、名利を求める心、その葛藤に笠置時代は悩んだのである。 晩年、海住山寺の観音の宝前で貞慶は自誓戒を行っている。そして観音の宝号を一千回唱えて、宿願の臨終正念を果たして、補陀洛山浄土へ往生したのであった。


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