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「興聖寺一切経」の中の薬師寺写経|宇都宮啓吾(大阪大谷大学教授)

 稿者は前稿において、貞慶十三回忌法会に供された「興聖寺一切経」の概要について述べたが、その中で触れた、「興聖寺一切経」の中に含まれる薬師寺僧の書写になる経典(以下、「薬師寺写経」と称す)について紹介したい。
 南都における貞慶の幅広い活動については多くの先学によって指摘されているが、未だ貞慶と薬師寺、また、海住山寺と薬師寺との関わりについて語られることは非常に稀であったように思われる。そのような中にあって、「興聖寺一切経」の中に薬師寺で書写された経典の存することには注目できる。
  「興聖寺一切経」における薬師寺写経の存在については、次の奥書から知られる(ここでは、奥書に「薬師寺」とある例を全例挙げておく)。

【 奥書 】
(1) 「薬師寺執筆円隆大法師」(『阿毘達磨界身足論巻上』)
(2) 「執筆薬師寺円隆大法師」(『阿毘達磨界身足論巻中』)
(3) 「貞応三年甲申九月廿五日書写了 薬師寺僧書之了」(『阿毘達磨品類足論巻第八』)
(4) 「貞応三年〈甲申〉九月十八日〈十一 十三/十六 十八〉書写了、
   /薬師寺蔵印大法 師為上人値遇也」(『阿毘達磨品類足論巻第十八』
(5) 「貞応三年〈甲申〉十月廿八日薬師寺於/大直院書写之畢、大法師信尊、
   /願諸同業者  臨終住正念 得見弥勒仏 無辺功徳身/願以書写力
   覚知唯識義 并授因明理 後生都 卒天墨書校合」(『阿毘達磨倶舎論巻第九』)
(6) 「貞応三〈甲申〉十月十六日書写之了、/薬師寺信尊大法師」
  (『阿毘達磨倶舎論巻第十一』)
(7) 「貞応三年〈甲申〉七月晦日午尅薬師寺/於大直院書写之筆、悪筆之条、尤
   /雖有其憚、 為結一仏浄土芳縁□、/所令書写之也、大法師信尊」
   (『諸経要集巻第一』)
(8) 「貞応三年〈甲申〉秋七月廿九日於薬師寺林堂/書写了、雖无極悪筆且為上人御房
   /且 為自身滅罪生善、出離生死、往生極/楽乃至法界平等利益之、女形所書写也、
   /円隆大 法師」(『諸経要集巻第五』)
(9) 「貞応三年閏七月十四日為報/上人恩徳誂他人令書写筆、/大法師薬師寺経鎮
   /執筆湛 勝/智浄」(『諸経要集巻第七』)
(10) 「貞応三年〈甲申〉七月廿日於薬師寺書写之了、
   /依解脱上人十三年御忌日新為彼値遇 /結縁不顧老眼加筆端耳、大法師蔵印
   〈生年/七十二〉」(『諸経要集巻第八』)
(11) 「貞応三年閏七月六日巳尅所畢、/薬師寺之五十巻結縁之内也」
   (『諸経要集巻第十』)
(12) 「薬師寺西室々井房書写了、/貞応三年〈甲申〉壬七月十四日執筆覚深法師」
   (『開元釈教録巻第二十』)

 これらの奥書から、薬師寺写経が「解脱上人十三年御忌日」((10)『諸経要集巻第八』)の為に、薬師寺で五十巻の書写を担当(「薬師寺之五十巻結縁之内」:(11)『諸経要集巻第十』)していたことが明記され、その期間は貞慶の十三回忌法会の2年前にあたる貞応三年閏七月から九月にかけてのものであることが知られる。  
 書写者が薬師寺僧である「円隆・蔵印・信尊・経鎮・湛勝・智浄・覚深」といった複数の僧侶であり、また、奥書に「薬師寺之五十巻結縁之内」とあることから考えて、薬師寺における書写が単なる薬師寺僧の個人的交流に基づくものではなく、薬師寺として「解脱上人十三年御忌日」に応じたものであったことが窺われる。
 この薬師寺写経は料紙にも特徴がある。貞慶が所有していた一切経(興聖寺蔵一切経の母体)に使用された料紙のほとんどは、黄檗染された料紙で、一紙が縦25cm・横53cm前後・界高20cm・界幅1.8cmという、当時におけるほぼ標準的なサイズのものが用いられているのに対して、この薬師寺写経は色の染められていない所謂「素紙(白紙)」が料紙として用いられており、縦25センチ・横50cm・界高19.5cm・界幅1.8cmという鎌倉時代前期の標準的なサイズのものである。(但し、料紙の縦寸は江戸初期の改装によって上下が裁断され、当時のサイズは明確でない。)この点も、薬師寺が五十巻の書写をするに際して共通の料紙を用意していたことを窺わせる。
  また、貞慶十三回忌法会については海住山寺第二世覚真(俗名:藤原長房・別名:民部卿入道)による勧進であったことが次の奥書から知られるが、これらの薬師寺写経の存在によって、この法会の準備が、海住山寺堂舎の整備のみならず聖教の整備に関しても早い時期から始められていたことが知られる。
元仁二年二月一日、依民部卿入道殿御勧進、悲華経一部書写進了、従四位下前但馬守源 朝臣家長(『悲華経』)  更には、(10)『諸経要集巻第八』の「依解脱上人十三年御忌日新為彼値遇/結縁不顧老眼加筆端耳」にも注目してみたい。この奥書を「解脱上人十三年御忌日に依りて新たに彼の値遇・結縁の為に老眼を顧みず筆端を加ふのみ」と仮に訓読しておくが、注目すべきは「新たに」という部分である。書写に際して新たに貞慶との値遇・結縁を求めるという記述は、従来からの縁を「改めて」結ぶのではなく、従来は無かった繋がりを求めた記述と考えられる。これが、単なる個人の感慨としてのものであるのか、薬師寺としての立場であるのかによってその意味合いは大きく異なってくるものと思われる。
 冒頭に述べた如く、貞慶と薬師寺との関係については語られることが少なく、むしろ、それが当時における実態であったとするならば、貞慶十三回忌法会を契機とした南都(興福寺と薬師寺)における関係の強化という可能性までもが浮かび上がってくる。
 貞慶十三回忌法会は(9)『諸経要集巻第七』の奥書にあるように「上人の恩徳に報いんが為」に行なわれたものではあるが、堂舎整備の実態や貞慶の存在の大きさを考えると、この法会自体を契機とした南都興福寺のネットワーク構築という政治的・文化的な背景が潜んでいるように思われ、この問題を改めて検討し直す必要がある。そこには、死してなお存在の大きな貞慶の姿が浮かび上がってくるところである。


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