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絵巻の貞慶、戒律の貞慶|五味文彦

『春日権現験記絵』と貞慶  奈良の春日大社に奉納され、今は皇居の三の丸尚蔵館の所蔵になっている『春日権現験記絵』は、春日神の示験を描いた絵巻物の優品であり、歴史の史料としてもたいへん貴重である。その成立は十四世紀の初頭であるが、これの前提には、鎌倉初期の学僧と知られる笠置の貞慶が記したという「御社験記」「笠置上人之旧記」の存在があった。
 すなわち『教訓抄』という楽書に見える狛行光の話には「御社検(験)記、解脱上人貞慶ト申シテ世コソリテ生仏ノコトクタツトミタテマツリシ人ノカキヲカセ給タリ」とあって、この話が解脱上人貞慶の書いた「御社験記」に見えるとあり、これが『春日権現験記絵』巻六の第一段の話と一致する。また、この絵巻の詞書の選択に関わった興福寺の僧覚円の手になる三巻本「春日権現験記」の奥識語にも、絵巻が「笠置上人之旧記」によったと見えている。  これらからわかるように、貞慶によって編まれた「御社験記」「笠置上人之旧記」を基礎にして新たな話が加えられ、絵巻の『春日権現験記絵』は成立したのであるが、貞慶は単に絵巻に素材を提供したのにとどまらず、絵巻にも登場し、しかも重要な存在として位置づけられている。この点を見ておこう。
 絵巻を詞書の内容や時代順の配列から探ってゆくと、全二十巻は三つの部分から成っているものと考えられる。巻一から巻八第二段の大舎人入道の話までは、俗人による春日大明神の信仰に関わる話を集めた部分。続いて巻八第三段の増利僧都の話から巻十八の明恵の話までは、興福寺僧を中心とした僧の春日信仰の話を集めた部分、最後が巻十九の正安の南都闘諍と巻二十の嘉元の大和国に地頭を設置する事件を描く、絵巻制作の時期に近い春日神の奇瑞の話を語る部分で、末尾に結語を置いて締めくくっている。
 最初に俗人の春日信仰の話を配した部分はさしずめ俗分と称することができるが、これに対して次の僧の話を載せ、春日の神への信仰の意味と重要性を語った部分は僧分といえるであろう。さらに最近の重大事件をとりあげ、春日の神の験がいかに現れてきたのかを強調した部分は神分といえよう。このように分類すると、貞慶はこのうちの僧分の巻十六と巻十八に登場しているのだが、その内容を詳しく検討してゆくと、明恵の話も含め、僧分の話という性格を有するとともに、神分の話にも相当していると考えられる。

春日大明神との感応  巻十六第一段は、解脱上人貞慶が内明と因明の「二明の棟梁」として興福寺の学問を担った僧であるにもかかわらず、衆との交わりを厭い、閑居に住むようになった時の話を描いている。
 春日の神が上人に光を通わすようになった建久六年(1195)九月の頃、上人は大和の宇陀郡で病気になって、その時に大明神から託宣があった。しかし、上人は信じようとしなかった。なぜなら神が本当に憑いたのならば、平常心を失うはずなのに、少しもそれがなかったからである。
 すると神はまた託宣を下して、「汝は不信の者である。神を疑うのか」と前置きし、いかに神が貞慶をこれまで加護してきたのかを説き聞かせた。「汝は我に宿縁があるものであれば、臨終の正念の時にも加護しないことがあろうか。汝が発心したのも我の力であり、般若心経を読んだことも、舎利を信じたことも、皆、我から発するものである」ことなどを、諄々と説いたという。
 巻十五までの話では、俗人にしても、僧にしても、その信仰を神が受け入れたり、不信の人に罰をあたえたりするものであるが、この話以後は神の存在が漠としたものではなく明示され、神の意思が具体的に描かれている点に特徴がある。次の第二段でも、建久七年九月に貞慶が笠置に春日明神を勧請した際に、春日の神をいかに勧請していったのかを具体的に描く。さらに第三段は正治元年(1199)秋、貞慶が笠置の草庵で重い悩みに陥った時、房中の人々を集め、堂の礼盤の上に威儀を整えて座るや、神のお告げを詳しく語っている。
 さらに巻十七は、明恵上人が中国に渡ろうとした計画を春日大明神が止めようと示現し、明恵を守るという託宣を語った話である。「栂尾の明恵上人は、十玄縁起の風、煩悩の塵を払ひ、六相円融の月、観念の窓に朗らかなりしかば、国家の福田として、衆生の依怙たりき」と、明恵がいかに優れた宗教者であったかを語ったのち、高尾から紀伊国の白上に赴いて、そこで渡海の願いを抱いた際の話を描いている。
 ここでも春日の神の積極的な意思が示され、これによって渡唐を断念した明恵は、春日の神に誘われ、春日社を参詣することになったのだが、その南都での動きを扱ったのが巻十八で、やがて明恵は笠置の解脱上人を訪ねて、舎利を与えられることになる。
 このように巻十七以降の話では、神の威光が具体的に明示される話が置かれており、絵巻にとっては最も重要な部分であったことがわかる。僧分の締めくくりの話であるとともに、神分の始まりに位置づけられている。まさに貞慶は興福寺と春日社の一体的な関係を象徴する人物として描かれていることがわかる。
 では以上の話は貞慶自身の生涯にとっては、どのような時期に相当するものだったのであろうか。その点を探るために貞慶の動きを探ってみよう。

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