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絵巻の貞慶、戒律の貞慶|五味文彦

後鳥羽上皇と法然  貞慶は建久九年(1198)十一月の興福寺から鎌倉幕府に訴えた牒状に執筆の労をとっている。和泉の国司の使者が、春日の神人を後鳥羽上皇の熊野御幸の経費を拒んだとして捕えて、簾に巻いたうえ、賢木を焼いたという事件に関するものである。興福寺が朝廷に訴え、国司は流罪になったのだが、知行国主の平親宗には何も罪が及ばなかったことから、これはおかしい、と訴えたものである。

神威永く廃れば、仏法争か住持せん。仏法若し衰へば、王法又如何。
君一人の少臣を惜しみ、寛仁恵沢の慈しみたりと雖も、
神三宝の大瑕を惜しみ、定めし和光同塵の誡めを加へん者か。

 興福寺・春日社の一体性に基づいて、王法がそれをないがしろにし、一人の臣下を流罪にするのを惜しむのは不当であると指摘している。まさに興福寺・春日社の危機感に基づいて貞慶はこの訴えの筆を執ったものとわかる。この年には後鳥羽上皇の院政が、幕府の意向を無視して始まっており、そうした新たな動きとも関係していよう。
 この事件は、翌正治元年(1199)七月に平親宗が亡くなって終わるが、その親宗が春日の神罰によって地獄に堕ちた話が『春日権現験記絵』巻六の二段に描かれている。そこに貞慶の名は見えないものの、貞慶の絡んだ話として絵巻には載せられたのであろう。
 貞慶が後鳥羽上皇に仕えるようになったのはこの頃からで、正治元年六月に上皇は笠置の般若台での霊山会の用途として伊賀国の荘園を寄進しており、その翌年には貞慶を水無瀬殿御所に招いて、法相の宗旨を尋ね、貞慶から「報恩講式」を送られている。元久二年(一二〇五)には上皇の乳母であった藤原範子の追善の仏事にも導師に招いている。  このように積極的に貞慶が上皇との関係を持つようになったのは、法然が建久九年に『選択本願念仏集』を著しその信仰が広がり始めていたこととも深い関係があったろう。貞慶が兼実に笠置への籠居を告げていた頃から、法然はしばしば授戒のために兼実亭を訪れていたが、この著作を契機に広く念仏の専修を訴えるようになり、兼実もその影響を受けるに至った。これにまず危機感を覚えたのが兼実の弟で天台座主になった慈円である。「九条殿ハ、念仏ノ事ヲ法然上人ススメ申シヲバ信ジテ、ソレヲ戒師ニテ出家ナドセラレ」と、兄の法然に対する傾倒ぶりを見て、天台教学の興隆を思い立ち、元久二年には大懺法院という仏教興隆の道場を建てている。
 貞慶も法然らの動きに危機感があって、元久二年(1205)に法然の専修念仏を批判し停止を求めた興福寺奏状の起草にあたっている。その前年に比叡山の僧徒が専修念仏の停止を迫って奏状を出すと、法然は『七箇条制誡』を草し、門弟百九十名の署名を添えて出し自戒したのだが、弟子たちには一向に反省する意思がなく、「上人の詞には皆表裏有り、中心を知らず、外聞に拘る勿れ」とさえいう始末であったという。
 そのことから、法然の考えについて九つの失を指摘し、その宗旨を論破しようとしたのが興福寺の奏状であり、この訴えによって念仏停止の宣旨が下され、建永二年(承元元年・1207年)には法然は土佐国(実際には讃岐国)に流されている。
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