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一針薬師笠石仏と貞慶 その1|山川 均(大和郡山市教育委員会)

はじめに  建長7年(1255)、三輪上人慶円(1140-1223)の弟子・塔義が撰した「三輪上人行状」(1)(以下、「行状」と略する)には、貞慶と慶円の交流を知る上で非常に興味深い、次のような記述がある。

当初於春日社頭。笠置解脱御房(貞慶)参会。初相上人(慶円)。殊生帰依。慇懃清談。予東金堂塔勧進造営。住京之時。任霊夢告。別発大願。請法性寺安阿弥陀仏。如法如説。造薬師像。和州信貴山麓。興降小伽藍。号総持寺。将奉安置。而未遂開眼供養。幸今奉遇聖人。枉令成就至願云々。…(中略)…開眼供養畢。験仏御座。同俗群参云々。

 すなわち、貞慶が興福寺東金堂や五重塔の復興勧進(2)のため京都にいた際に見た霊夢に基づき、「法性寺の安阿弥陀仏」に依頼して薬師像を造り、大和信貴山麓に総持寺という寺を興してそれを安置した。しかし、未だ開眼供養はなされていなかったが、ある年の年始に春日社において貞慶と慶円は知り合うこととなり、その縁で慶円がこの仏像の開眼導師を務めることとなったのである。
 小稿では、この豪華メンバーによって制作された幻の仏像について考えて行くこととする。

総持寺  総持寺は現在の奈良県三郷町勢野、大和川沿いの小丘陵裾部にあった寺院で、現在は主要な伽藍は失われ、子院であった持聖院と養福寺、鎮守の春日社を残すのみである。明徳2年(1391)などの西大寺諸国末寺帳(奈良国立文化財研究所1968)にその名を記されており、ある時期に西大寺の末寺となっていたことがわかる。永仁6年(1298)に関東祈祷寺となった寺院中に、他の西大寺末寺と並んでこの総持寺の名も見えるので(3)、少なくとも鎌倉時代後期には西大寺の強い影響下にあったものであろう。ずっと後のことになるが、永禄10年(1567)、多聞院英俊は貞慶の遺髪や袈裟、自筆の経文などの「総持寺の宝物」を拝観している(4)

快慶と貞慶  ところで、薬師如来像を制作した「法性寺の安阿弥陀仏」とは、鎌倉時代の仏師として運慶と並び称される快慶(生没年不詳)のことである。なぜここに「法性寺」と付くのかは不明であるが、慶派と法性寺(現在の東福寺の前身)は九条兼実を通じて関係があったようなので(水野1958)、それがこの名乗りと関係するものかもしれない。
 貞慶は快慶作の白檀釈迦如来座像を念持仏としており(水野1958)、また建仁2年(1201)造立の東大寺俊乗堂阿弥陀如来立像は、俊乗房重源(1121-1206)の発願により快慶が制作したものだが、本像の開眼供養導師は貞慶であった。(5)このほか、正治元年(1199)作の京都峯定寺釈迦如来立像には、末尾に貞慶が結縁したことを示す一文が付く「解深密経」が納入されていた(奈良国立博物館1993)。この仏像の作者は不明であるが、作風に快慶の特徴である著しい宋風様式が指摘されており(奈良国立博物館1993)、その他の要素からも、本像は快慶作の可能性が非常に高いといわれている(水野1958)。このように、貞慶と快慶はかなり親しい関係にあったものと思われ、こうした両名の関係から、総持寺薬師如来像は快慶が制作することになったのではないだろうか。

薬師如来像の造立時期  次いで、薬師如来像が造立された時期については「行状」には明確な記述がないが、一応、貞慶が興福寺東金堂と五重塔の復興勧進を行っていた頃ということになる。これについて、毛利久は文治(1185-90)前後から建久(1190-99)のはじめ頃とし(毛利1961)、水野敬三郎もこれに従うが(水野1958)、実際には東金堂が養和2年(1182)着工、元暦2年(1185)完成、塔は正治2年(1200)着工、元久2年(1205)完成なので(工藤1969)、次期幅はもう少し広くとった方よい。すなわち本像の造立時期については、12世紀末から13世紀初頭位を想定しておくのが妥当であろう。
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