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一針薬師笠石仏と貞慶 その2|山川 均(大和郡山市教育委員会)

一針薬師笠石仏  さて、総持寺の本尊として造立されたこの薬師如来像については、毛利(毛利1961)や小林剛(小林1962)、水野(水野1958)らが快慶を論じる中でそれぞれに言及しているが、それはある時期に失われたという認識で一致していた。これに対し太田古朴は、この快慶作の薬師如来像とは、総持寺の跡地に現存する通称「一針薬師笠石仏」のことではないかと想定した(太田1966)。
 一針薬師笠石仏は、自然石の基礎上に高さ約200p、幅190p程度の花崗岩の表面を整えた不整形の石を据え、その中央に薬師如来立像、左右に脇侍(日光菩薩・月光菩薩)、周囲には十二神将を線刻とする。また、上部には幅190p、奥行き100p、厚さ20pの笠石が乗り、いわゆる「笠仏」形式となるが、同種のものでは日本最大級である。笠の裏面に銘文があり、「為本願□□上人…一周忌之…」などの銘文がある(清水1984)。
 「一針」の通称は、まるで針で刻んだような繊細な線彫りに由来するという(清水1984)。本尊(像高156p)のみは周囲をやや彫り窪めて浮彫り状とし、存在感を持たせている。薬壷を奉持し、踏み割りの蓮座上に立つ。豊満な体躯を覆う流麗な衣文は脚でY字状に流れる。脇侍は本尊に向かって斜めに立ち、十二神将は後方に重複するような図様で彫られている。総じて鎌倉時代前期の様相を呈し、また、非常に優れた構図や技法によって制作された線刻石仏と評価できる。

貞慶と石仏  太田古朴は、本尊や脇侍が宋風であること、また、快慶の作風に類似することなどを根拠に、本石仏が「行状」記載の快慶作薬師如来像だと主張する。また、建久3年(1192)に貞慶が隠棲した笠置寺の本尊(弥勒磨崖仏)も同様に石仏であることも根拠に挙げる(太田1966)。
 確かに笠置寺には上記の本尊弥勒磨崖仏(奈良時代)や、伝虚空蔵菩薩磨崖仏(平安後期(6))が存在し、貞慶がそれに倣って総持寺に石仏を置いた可能性はある。ちなみに笠置寺本尊弥勒磨崖仏については、南北朝の内乱による兵火で像容は失われているが、鎌倉時代の笠置寺を描いた笠置曼荼羅図(7)や、それを模刻したと伝える(8)大野寺本尊弥勒磨崖仏があり、その像容や踏み割り蓮台等は、一針薬師笠石仏に通じるものがある。

宋人石工  大野寺弥勒磨崖仏は、承元3年(1209)に完成し、願主は興福寺別当雅縁であった。近世以降の編纂史料となるが、寺の縁起や地誌類には承元元年(1207)に慶円が仏像の建立予定地を地鎮したと記すものがあり、また、宋人石工数名が磨崖仏を制作したとするものも複数見られる(9)。近世の史料にどこまで信頼が置けるかが問題ではあるが、先述のように総持寺薬師如来像の造立年代下限を興福寺五重塔が再建された元久2年(1205)とすると、大野寺磨崖仏の造立開始はそれに近い年代であったことになる。
 また、宋人石工のこの時期前後における活動としては、建久7年(1196)における東大寺石像群の造営がある。重源の指揮下において、宋人字六郎ら4名の石工が、大仏脇侍石像や四天王像、石獅子などを制作した(10)。このうち、石獅子一対のみが現存する(南大門)。
 また、建仁2年(1202)には、やはり重源の指揮に基づき、宋人石工の「守保」ら3名が河内狭山池の修築にあたっている(11)。建久6年(1195)に東大寺供養が終わり、建仁3年(1203)には同総供養も無事終了した。宋人石工らは石像の造立のみならず、般若寺笠塔婆銘文(12)などから東大寺建造物の石壇なども担当したことが知られているが(山川2008)、この時期にはそうした仕事も一段落していたのであろう。
 重源は建久7年(1196)、笠置寺に唐本大般若経と中国風の「六葉鐘」と呼ばれる特殊な梵鐘を寄進するなど、貞慶とは両者は親密な関係にあった(小林1971)。こうした重源と貞慶の個人的な関係から、彼らが興福寺の修造、あるいは同寺別当雅縁が主催した大野寺磨崖仏の制作に回された可能性も強いと思われる。

総持寺薬師石像造立  総持寺薬師如来像が造立されたのは、まさにこういう時期にあたる。貞慶がこの時期、何を目的に総持寺を創建したのかは明らかではないが、貞慶は笠置寺を意識し、その本尊を石仏とした。硬質の花崗岩を仏像等の石造物素材として用いる例は、飛鳥〜奈良時代には見られたものの、一部の例外(13)を除くといったん途絶える。それが再び利用されるようになるには、東大寺復興を機縁とした宋人石工の渡来を待たねばならなかった(佐藤2009)。
 先述のように、一針薬師笠石仏の素材は、花崗岩である。東大寺石造群の制作は西暦1196年、一針薬師笠石仏の制作下限時期は西暦1205年なので、両者の時期差は最大限見積もって9年程度しかないが、この短期間に硬質石材の利用が日本人石工の間に拡まるとは考えにくい。したがって一針薬師笠石仏を制作したのは、宋人石工であった可能性が高いと思われる。
 太田古朴が指摘したように、「行状」記載の「薬師像」とはこの一針薬師笠石仏のことであったのだろう。そしてそれを是とするならば、本石仏の下図は快慶が描いたものであったということになる。 おわりに小稿では三郷町所在の一針薬師笠石仏について、貞慶が快慶に下図を描かせ、宋人石工が実際にこれを制作したものと推定した。拠った史料が限定され、勝つ挙証も不十分であったのが残念だが、本稿により針薬師笠石仏が広く周知され、他分野の方との共同研究が行われることがあれば、ここで述べた仮説がより強固になることもあろう。次稿を約し、擱筆することとしたい。
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