歴史と沿革

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海住山寺の歴史と沿革

 笠置の山峡が急にひらけて、木津川の流れもゆるやかになったあたり、甕に似た地形によって、瓶原と呼ばれたというこの地は、「みかの原わきて流るゝ泉川、いつみきとてか恋しかるらむ」との小倉百人一首に収められた兼輔の歌で、ひろく人々に知られております。この地は、奈良時代のはじめ、元明天皇が離宮を設けた所といわれ、ついで聖武天皇が橘諸兄に命じて大養徳宮恭仁大宮をいとなませられた地でありました。天平十三年(741)正月、聖武天皇はこの地で群臣の朝賀をうけたまい、同じく閏三月には、五位以下官人対して即日恭仁の新京に移ることを命ぜられ、その八月、平城の都をここに移して、鹿背山を境に、東を左京、西を右京と定めたもうたのでしたが、やがて故あって都は近江の紫香楽宮に遷されることになり、恭仁京の造営は半ばにして止められたのであります。この年(一説によれば天平十年という)、天皇は諸国に国分寺を設けよとの詔をくだしたまい、ほどなくこの地に山城の国分寺が、川をへだてた北に僧寺、南に尼寺と、甍をつらねることになりました。

 こうした由緒ある瓶原を一望におさめる海住山の中腹、幽邃の地に、当海住山寺が創建されたのは、恭仁京造宮にさきだつ六年前、天平七年(735)のことと伝えられております。大盧舎那仏造立を発願あそばれた聖武天皇が、その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるということです。しかし、この寺は、不幸にして保延三年(1137)に灰燼の厄に遭い、寺観のことごとくを失ったのであります。

 その後、七十余年を経た承元二年(1208)十一月、笠置寺におられた解脱上人貞慶が思うところあってこの観音寺の廃址に移り住み、草庵をいとなんで補陀洛山海住山寺と名づけ、旧寺を中興されて、ここに現在の寺基が定められたのでありました。補陀洛山とは、南海にあるといわれる観音の浄土の名であります。浄土とは、生ある限りいかなる人も対決しなければならない人間苦・人生苦を解決した真実の楽しみの世界を意味し、この世界に至る道が、いわゆる菩薩道(自他ともに真実の智慧にめざめ、生きとし生けるものをいつくしむ慈悲を行ずる道)にほかなりません。解脱上人は、この山をこうした菩薩道実践の場所とさだめて、観音の浄土にちなんで補陀洛山海住山寺と名づけられたのでありました。瓶原の平野と、その彼方に連なる山なみを海に見たてたとき、まさしくこの海住山は、南海の洋上に浮かぶ補陀洛山のごとくであり、とりわけ、うす曇りの日に山上から眺める光景はその感を深くして、いみじくも海住山寺と名づけたものか、とさえ思われます。

 解脱上人貞慶(1155−1213)は、左少弁藤原貞憲の子で、幼くして興福寺に入り、覚憲に師事してひたすら研学につとめ、維摩会・最勝会の講師までも歴任した南都仏教界随一の学僧であり、身をつつしむこときびしく、壮年に至り感ずる所あって笠置山にかくれ、名利をのがれてもっぱら徳をつまれた方でありましたが、晩年その心境がいっそうひらかれるにつれて、人々を教化して仏道にむかわしめるために、この海住山寺に移り住まれたのでありました。上人は、弟子たちに「富勢名誉を望むは自己継承の人にあらず」と常におしえて戒律をおごそかにし、当山の草庵に移られてからも、戒律復興のため、南都興福寺の山内に常喜院を設けて律学の道場とされております。この常喜院からは、後に西大寺の興正菩薩叡尊や唐招提寺の大悲菩薩覚盛など、すぐれた高僧が輩出し、めざましい活躍をしていることから考えても、鎌倉時代の南都仏教復興は、その源を海住山寺に発すると申しても過言ではないでしょう。上人には、「唯識論尋思鈔」・「法相宗初心略要」・「法華開示抄」など当時の仏教学の最高水準をゆく幾多の著述がありますが、その深い内省ときびしい求道を物語る書に「愚迷発心集」があって、読む人の衿をたださせます。かの法然上人が浄土宗を開かれたとき、その徒の中には教をあやまり風儀をみだすものがありましたので、これを憂えて「興福寺奏状」を起草したのも、上人であったと伝えられております。

 かかる世にたぐい稀な学徳兼備の高僧解脱上人の衣鉢をついだのは、慈心上人覚真(藤原長房、1170−1243)でありました。覚真は、先師の遺志をうけていよいよ戒律を厳しくし、また寺観の整備に力をつくしました。 現存の五重塔は、建保二年(1214)、先師一周忌の供養に際して解脱上人が後鳥羽院から拝領した東寺、唐招提寺の仏舎利を納めるために覚真が建てたものであり、小さいながらもよくととのい、特に心柱が初層で止められている点は建築史上有名であります。のち、寺門は大いに栄えて塔頭五十八ヶ坊をかぞえ、中でも、東大寺の宗性上人が住持した十輪院などは、文献的にも著名なものでありましたが、天正年間、秀吉の検地によって経済的な痛手をうけ、ついに現本堂を中心に整備統一されることになりました。山門をくぐって開ける平地は、住時のさかんな坊跡を思わせ、歴史の興亡を回顧させます。 現在の当山は、真言宗智山派に属し、一万坪の境内には、国宝の五重塔や重要文化財に指定された文殊堂をはじめ、山門、本堂、本坊、鐘楼、奥の院、薬師堂、納骨堂、春日大明神、その他の伽藍が、八葉の峰につつまれて、真言の秘法を象徴し、山には古の信仰をしのばせるかずかずの石仏や、千年に垂れんとする大木が天を摩して、おのずから人の心を清めて静寂の境にみちびいてくれます。又特に厄除寺として知られ、現世利益の根本道場でもあります。