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解脱上人と明恵上人 - 「太郎・次郎説話」をめぐって -|野村 卓美(別府大学短期大学部教授)

3.明恵・高山寺と菩提山正暦寺  先学の調査によると、無住は高山寺と直接的な関係は有していなかったようである。故に、正暦寺で耳にした明恵説話は何人かが栂尾周辺から運んだものであろうか。高山寺と正暦寺を結びつける資料は現在二つ見出すことが出来る。
 その一つは、『明恵上人集』(新編 国歌大観。角川書店)には、

建保四年四月九日、仏性上人楞伽山の草庵に来臨、以四首和歌来 中二首、詠愚僧籠居事(七五番歌詞書)

とあり、建保4年4月に、仏性と明恵が4首の和歌を贈答している。この仏性について、小澤サト子氏は『鳳笙師傳相承』(続群書類従)の忠秋の弟子に「仏性〈利秋一男。南都笙正統。菩提山僧也。〉」とある人物とす(6)る。現在、他に仏性と明恵の関係を示す資料は指摘されていないようである。明恵の周囲には多くの芸術家がいたが、音楽家としては藤原孝道(1166〜1238)との関係がよく知られており、同じ音楽家であった仏性との関係も留意されるが、孝道の逸話を記す『文机談』等にも両者の交遊を語る記事を見出すことは出来ないようである。
 二つ目は、高山寺に現存する聖教類に「菩提山」で書写されたものがある。例えば、『金輪法』(高山寺聖教類 第四部 第九二函52)の奥書には、

本文云文暦二年閏六月廿六日宿住于醍醐寺塔南房賜理性院/御本書了
求法深空 嘉禎三年卯月八日於菩提山書了/一コウ了
弘安六年六月十九日書了(以上本奥書)
嘉暦四年〈己巳〉三月廿一日書写了    
執筆長藝

とある。
 深空(伝未詳)が文暦2年(1234)閏6月26日に醍醐寺理性院の本を書写し、嘉禎3年(1237)4月8日に菩提山で一校がなされ、弘安6年(1283)6月19日に書写されている。それを、嘉暦4年(1329)3月21日に、高山寺の僧と推察される長藝(1277〜)が書写している。一校がなされた「菩提山」は、今、論じている正暦寺と推察される。何故なら、同寺は報恩院を中心として、「真言密教を保持し続け」(補注(2))ていた。前述した如く、無住も菩提山で密教を学んだと記しており、同寺は密教寺院である醍醐寺僧侶との交流も頻繁になされていたと推察される。
 しかし、これらの典籍類が菩提山から高山寺にもたらされた時期、その経緯等は未詳であるが、長藝が書写した典籍類に同様の奥書を多く見出すことが出来る。明恵歿後百年、無住在住時からも50年が経過した時期ではあるが、高山寺・正暦寺の間に何等かの関わりが存していたことを示唆しているのではなかろうか。


4.『沙石集』と太郎・次郎説話  『沙石集』(市立米沢文庫蔵本。新編 日本古典文学全集。小学館)巻第一 慈悲と智とある人を神明も貴び給ふ事には、春日大明神の御託宣には、

「明恵房・解脱房はわが太郎・次郎なり」とこそ仰せられけれ。ある時、二人、春日の御社へ参詣し給ひけるに、春日野の鹿ども、膝を折りて皆臥して敬ひ奉りけり。
 明恵房の上人、渡天の事、心の中ばかりに思ひ立ち給ひけるに、湯浅にて春日明神御託宣ありて、留め給へり。かの御託宣の日記も侍るとぞ承る。

とある。この説話も、前述した、明恵が「犬侍者也」と語ったという逸話と同様に、明恵に関する不確かな資料・伝承を背景としていると思われる。この説話に関しては、既に平野氏に詳細な論がある(1)。ここでは、少し、氏とは角度を変えて、年長の解脱(1155生)が「次郎」、年少の明恵(1173生)が「太郎」(以下、「太郎・次郎説話」)と記されていることに留意したい。
 大明神が語ったという「太郎・次郎説話」は、無住が記す如く、「御託宣の日記」に起源している。同日記は明恵の高弟喜海著『明恵上人神現伝記』(貞永年間(1232〜3)成立。以下、『神現伝記』と略記)を指していると思われる。明恵が紀州居住の間、建仁3年(1203)正月26日、一人の女房(湯浅宗光妻室)に春日明神が憑いた。同29日に託宣をはじめた。その中で、解脱に言及している。そこでは、

解脱ノ御房ハ不思議ニ哀ナル人ニ候フ、其モ籠居ノ条我等ウケス候ナリ、カク申ト御物語候ヘシ、

と語っている。解脱が笠置に籠居したことへの不満を述べている(7)。『神現伝記』による限り、以後、女房は解脱には言及していない。「太郎・次郎説話」はこの出来事を契機として創作されたことは明らかである(8)
 現在、無住が明恵・高山寺に関する情報を入手できる場としては正暦寺があったことは 先述したが、それに比して、無住は解脱の情報は容易に入手出来る状況にあった(9)。それは 、興福寺別当であった信円(解脱との関係は安田氏(補注(3)参照))が中興した正暦寺で修行し、法相学を修めていることからしても明らかである。事実、『沙石集』巻一 解脱房の上人の参宮の事をはじめとして、同集には解脱に関する多くの逸話が収められている。解脱・明恵両上人の長幼も承知していたのではなかろうか。加えて、解脱縁の正暦寺で修行し、解脱の著作も参照しながら法相学を修めたと推察される無住が、明恵よりも解脱を敬っていたことは容易に推察出来る。そのような無住が「太郎・次郎説話」を違和感もなく受容しているのは、何らかの背景が存していたのではなかろうか。
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