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解脱上人と明恵上人 - 「太郎・次郎説話」をめぐって -|野村 卓美(別府大学短期大学部教授)

1.はじめに  重要な資料を見落としているのであろうか。または、仏教思想に全く不案内であるが故に、基本的な考え方を知らないためであろうか。解脱上人(1155〜1213)・明恵上人(1173〜1232)について調査をすると、先ず最初に疑問に思うのが、春日明神が明恵を太郎、解脱を次郎と語ったという、所謂「太郎・次郎説話」である。何故に、南都、特に興福寺という勢力を思想的・経済的に支え、また、年長者でもあった解脱が、極少人数の同朋しか有しなく、確とした教団すら構築しなかった年少の明恵の弟と評されなければならなかったのであろうか。これも、私の不勉強故であろうか、知る限りではあるが、この「太郎・次郎説話」に対して、興福寺や南都仏教界から解脱を擁護、または、同説話に対する反論に類する文献が存していないようである。
 以下は、「太郎・次郎説話」をめぐる、纏まりのない拙文である。先学のご批正とご教示を賜れれば幸甚に存じます。

2.無住と菩提山正暦寺  無住著『雑談集』(中世の文学。三弥井書店)巻之第三 愚老述懐 によると、 愚老ハ嘉禄二年〈丙戌〉十二月二十八日〈卯時〉、産タル者也。 とあり、無住は嘉禄2年(1226)の誕生であることがわかる(1312年10月10日歿)。以下、続けて、無住は自らの略歴を語る。その中に、 三十六歳、菩提山ニ登テ、形ノ如ク東寺ノ三宝院ノ一流肝要伝ヘ了ンヌ。 とあり、弘長元年(1261)に菩提山正暦寺(現、奈良市菩提山町)で修行し、真言を学んでいる。また、 菩提山ニ於テ、法相ノ法門要処少シ之ヲ聞ク。何レノ宗モ其ノ旨ヲ得ズ。只肝要耳ヲ経ル許リ也。 とも記しており、法相宗も同寺で修学している。同寺での修行期間は語ってはいないが、 『沙石集』(1)や『雑談集』には、正暦寺に関する逸話が多く記されており、学問以外のことも、見聞したようである。
 菩提山正暦寺の成立(2)に関しては、応永16年(1409)に著された『菩提山正暦寺原記』(『大和志料』上巻。天理時報社)に詳しい。それによると、九條師輔息兼俊大僧正を開基として、正暦元年(990)に大伽藍が着手された。以後、皇室・九条家と緊密な関係を持続していたが、治承4年(1180)12月、平重衡の南都焼討により、炎上。建保6年(1218)九條忠通息信円大僧正(1153〜1224)が再建、信円は「菩提山正暦寺ノ中興」と称されている。その信円の経歴は、『興福寺別当次第』等にも詳述されている。(3)
 無住が正暦寺を訪れたのは中興後半世紀、信円歿後四半世紀のころであったが、多くの僧侶が修行に励んでいたようである。無住のように、幾つかの寺院を廻って修行する僧侶もいたようである。そのような修行者の中には、異なった宗派の高僧の説話を運んでくる者もいた。大量の伝承・逸話類を耳にしていたと推察されるが、無住が書き留めたのはその中の、ほんの一部にしか過ぎないであろう。
 その中の一つに、次のような逸話がある。

南都ノ菩提山ニ住シテ侍シ時、或人ノ物語ニ「故明恵上人、『我ハ犬侍者也』トテ、 非時ニクワシテイ菓子躰ノ物用ヒ給ケリ」ト申シヲ、イト思モトカズ侍シ程ニ、信州ノ或山ノ 中ヲ通リシ時、イヌコブシ犬辛夷ヲ見テ、忽念トシテ其意ヲ得タリ。得法悟道モカクヤト覚ヘ 侍リ。ヨ 仍テ量ヲ立テ一首ヲ詠ジテ、菩提山ノ同法ノ僧ノ許ヘ遣テ侍シ、思ヒ出シ侍 リ。
巻之第三 乗戒緩急事(4)

 無住が菩提山で修行中に、ある人から故明恵上人について、以下のような話を聞いた。明恵が非時(仏教の律で、食事をしてはならない正午過ぎ)に菓子のようなものを食し、その理由を「我ハ犬侍者也」と釈明していた。その時は、明恵の真意を理解出来なかったが、後日、信州を旅した折りに、その意を悟り、「菩提山ノ同法ノ僧ノ許ヘ」一首の和歌を送った。
 戒律を重んじる高僧として著名な明恵の意外な一面を伝える逸話として、正暦寺ではよく知られていたと推察される。逸話は、何時の時代でも同様であるが、想像を超えた意外な部分と、幾分かの真実性を共有するが故に、語る人、聞く人の関心を引く。
 周知の如く、明恵は「父平七武者重国〈高倉院/武者所〉」、「母ハ湯浅権守藤原宗重第四女ナリ」(『仮名行状』上)とあり、父母共に武者の出自であった。また、文暦2年(1235)、三回忌の年に明恵の詞を蒐集した『明恵上人遺訓〈抄出〉』には、

又云仏法修行ハ、ケキタナキ事カアルマシキ也、武士ナントハ、ケキタナキフルマ ヒシテハ、生テモナニカセン、

と語っている。また、文治4年(1188)、16歳でおじ舅上覚から具足戒を受けた明恵は、

如来因位ノ修行ノ如ク、志ヲタテ行ヲコノムヘシ、弓〔箭〕前ヲトル輩、ケキタナキ死ニセシト云カ如ク、我モ又法ノ為ニセハ、(『仮名行状』上)

云々と、「ケキタナキ(5)」行為をすることを恥じている。それは武士を出自とする者の矜持であったのであろう。このように話していた明恵が、自らを「犬侍者也」と語ったとしても、違和感はない。
 次に、文暦2年9月6日から明恵の詞を編集しはじめたことが記されている、『却癈忘記』上には「或時、仰覚仙房云」として、

物ヲワスルヽハ、力及ハヌ事ナカラ、又、実ニハヒカ事也、真実ニ心ニ入ヌル事、 ワスルヽミチナシ、(時)トキ非時ヲワスレヌカ如シト云々、

と語っている。時・非時は僧侶の生活の基本と話している明恵が、無住の伝えるが如き、破戒的行為をなしていたとは考えられない。
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