特集コンテンツ一覧

特集コンテンツ一覧

海住山寺トップページへ

解脱上人と明恵上人 - 「太郎・次郎説話」をめぐって -|野村 卓美(別府大学短期大学部教授)

5.「太郎・次郎説話」の再検討  明恵伝記文献に関しては奥田勲氏の論(10)が最も詳細である。氏によると、明恵伝記は「根本的な資料」である『高山寺明恵上人行状』(『仮名行状』・『漢文行状』)の行状系と、「説話的に構成」されている『栂尾明恵上人伝』等の伝記系に分類される。「太郎・次郎説話」は行状系には存しなく、伝記系にのみ見出せる。そのようなことも踏まえて、次のような指摘がなされている。

「栂尾明恵上人伝記」(慶長4年(1599)書写の奥書を有する伝記系伝記)のような(春日大明神託宣の「太郎・次郎説話」は)、明恵圏においてつくられた話型が 「沙石集」などに享受される形になっている(11)

明恵説話が正暦寺を介して無住にもたらされた可能性については前述したが、「太郎・次郎説話」が「明恵圏においてつくられた」ことは推察することは出来るが、早急に結論を出すことは出来ないのではなかろうか。
 例えば、興福寺蔵『栂尾明恵上人伝』上には、

又明恵上人ヲハ我太郎ト思、解脱上人ヲハ我二郎ト思ト御託宣有ケルトテ奈良ヨリ来ル学侶語申ス事披露シケリ、此上人御事ニ付テ、連々ノ御託宣有事多ニ依、爰ニハ載ス、本所ニ多注シ置ト云々、

とあり、奈良からの情報と明示している。また、春日明神が明恵に言及する託宣が大量に存していたことも伝えている。明恵教団創作説は、もう少し検討する必要があるのではなかろうか。奥田氏は「春日系の人々の増補」と推察している。
 引用した、興福寺蔵『栂尾明恵上人伝』について奥田氏は「伝記系諸本の中で最も古い時代の書写本」であり、「鎌倉時代末期書写」とする。また、平野氏が「最も古態を保つ」 として紹介する『梅尾明恵上人伝上』も貞治3年(1364)書写である(12)。それに比して 、無住は『沙石集』を弘安2年(1279)ころから「執筆開始」(新編 日本古典文学全集。無住関係略年表)しており、現在確認出来る「太郎・次郎説話」の初出である。次に、伝記系諸本の写本に見出せる。奥田氏は「伝記系の基をなしてゐるのは、喜海のなした和文行状の稿本的なもの」と推察する。とすると、喜海(1174〜1250)が奈良の情報を参照しながら記したのであろうか。しかし、前述した如く、『神現伝記』を著したのは喜海であり、「太郎・次郎説話」の創作者に擬することは出来ない。
 『沙石集』と同様に、『神現伝記』を参照したと推察される作品に、延慶2年(1309)頃に成立した『春日権現験記絵』(『春日権現験記絵 注解』(和泉書院)。以下、『験 記絵』と略記)がある。その巻十七(13)には、建仁2年正月19日(29日の誤記か)に、

又おほせらるゝ様、「解脱房をもて、同隷としたまふべし。解脱御房は不思議にあはれに候人なり、と四五度おほせられても籠居の事、我等うけず。かくと申と御物語候べし」とのたまふ。

とある。『沙石集』の記述と比較すると、明らかに『験記絵』のそれが『神現伝記』に近似していることがわかる。
 引用した箇所の翻刻を比較してみると、「解脱房をもて、同隷としたまふべし。」の波 線部を、多くは「同齢」としている(14)。18歳年少の明恵と解脱を「同齢」とするのは不審であり、意図的な格差意識が読み取れる。「同隷」は「同じ主人に隷属する仲間。同じ仲間の者。」(『岩波 古語辞典』)の意である。ここで「同じ主人」とは春日明神を指すのであろうか、すると、「信仰を同じくする者。同朋・同学。」の意であろうか。「解脱を、あなた(明恵)と同様に春日明神の信仰者となさるべきですよ。」となる。そうすると、「同齢」よりも「同隷」が相応しいことになる。
 『験記絵』の影印を見るも、いずれとも判断出来ない。
 『験記絵』詞書の成立について略述してみたい。解脱の著述が詞書の成立に深く関わっ ていたことは、先学から指摘されてきたことであり、特に、最近、五味文彦(15)近本謙介(16)両氏により詳細に検討されている。また、延暦2年3月に西園寺公衡(1264〜1315)が著した『春日権現験記絵目録』がある。同目録には『験記絵』制作の意図等が記されているが、その中に、

篇目においては覚円法印注し出し、且つは両前大僧正〈慈信/範憲〉に相談しおはんぬ。

とあり、覚円を中心として、慈信・範憲を相談役として成立したとある。興福寺の高僧3人がその成立に深く関わっていたことが明記されている。加えて、解脱は南都焼討で壊滅的な被害を受けた興福寺の教義の再構築に加えて、伽藍や仏像等をも精力的に復興したとの指摘もある。(17)解脱は『験記絵』成立期においては、興福寺・春日神社に関わった最も重要な人物の一人として、尊崇され、絵巻物でも同様に描かれる資格を有していたと考えられる。先に引用した『験記絵』巻十七と『神現伝記』との関係は検討する必要があるが(補注(13))、「解脱房をもて、同隷としたまふべし。」という表現は後人により付加されたものである。前述したような状況にあった解脱と、宗派が異なり、加えて年少の明恵を「同齢」とするのは勿論であるが、「同隷」と表現していることには、単なる見落としと考えるよりも、何らかの意図を読み取るべきではなかろうか。興福寺関係者の眼が細部まで行き渡っていた作品である故に、一層、そのように思われてならないのである。

4.おわりに  私がこのように推察するのは、以下のような文献がある故でもある。
 直接的な、「太郎・次郎説話」ではないが、文安5年(1448)8月19日の『臥雲日件録』(続史籍集覧)には、最一なる人物が話した興味ある伝承が記されている。

明恵は常に春日明神と直接対面することが出来るが、解脱は牆を隔ててしか対面がかなわない。そこで、解脱は明神の真体の模造を願い出、許される。それは地蔵像であった。

 春日明神の本地を語る説話ではあるが、この伝承の中にも、明らかに明恵を重視する春日明神と、それに比して幾分か軽視されている解脱像が語られている。
 最後に、山ア淳氏が紹介する笠置寺蔵『解脱記』を参照してみたい(18)。同記は成立年等未詳であるが、親交のあった明恵が、解脱が修行している窟を尋ねるが、想像に反していたので、

来てみればここもみやこにすみなして おもひしほどは棄ぬ也けり

との歌を遺して、会わずに帰った。解脱はそれを恥じて海住山寺に移った。
 何故にこのような説話が受容されてきたのであろうか。また、興福寺・春日神社・正暦寺という解脱と緊密な関係にあったはずの空間で、明恵を重んじる伝承が萌芽したのは何故であろうか。
 先学のご教示を賜りたい。
123


関連情報