特集コンテンツ一覧

特集コンテンツ一覧

海住山寺トップページへ

解脱上人貞慶の神祇信仰1 -特に春日神と天照大神をめぐって- |舩田淳一

はじめに 中世は神仏習合思想が華麗に展開した時代であり、多くの信仰的遺品を現在に伝えている。それは南都寺院においても例外ではない。小稿では興福寺出身の学僧であり、笠置寺に遁世し更には海住山寺へと移住しつつ、多彩な宗教活動を展開した解脱上人貞慶の神祇信仰を通して、南都における神仏習合の様相へと迫りたい。具体的には春日神を中心に分析を展開し、天照大神とも関係付けながら、中世春日信仰に占める貞慶の位置を明らかにしてゆく。

1.春日本地説と貞慶  貞慶が最も深く信奉した神祇は、何を措いても先ずは春日神である。藤原氏に出自を有し、藤原氏の氏寺興福寺に属した貞慶にとって、春日神は氏神であり興福寺法相宗の護法神であった。中世の神仏習合は、「本地垂迹」と呼ばれる神仏同体の思想に特色付けられる。春日神の場合、院政期以来、諸説あるものの、一宮(鹿島神=タケミガヅチ)は不空羂索観音、二宮(香取神=フツヌシ)は薬師如来、三宮(平岡神=アメノコヤネ)は地蔵菩薩、四宮(姫神=天照大神)は十一面観音と、概ね本地仏は理解されていた。特に一宮本地仏の不空羂索観音は、藤原氏の守護仏として著名な興福寺南円堂の本尊である。その他の宮の本地仏も、興福寺諸堂に祀られる尊格に比定し得るかもしれないが、不空羂索の身に纏う鹿皮を春日の神鹿に結び付けることで、両者の本地垂迹関係が説明されることは、諸資料に明らかであり、また堂内の本尊前に春日神(赤童子)が祀られているように、南円堂は他の諸堂よりも春日信仰と密接なのである。そして南円堂の観音には政敵を呪殺する説話が色濃く纏わり着いていることも、この際、考え合わせておこう。氏神と守護仏の本迹一体は強固なものであったと言える。
だが貞慶は春日一宮の本地仏を釈迦如来であると考えていた。それは貞慶の初期の著作で、建久4年(1193・39歳)の笠置遁世以降、間もない頃の成立と想定される『別願講式』の二段に記されている。そこには「承平年中の託宣に、自ら慈悲万行菩薩と称す……いわんや内証の本地は、釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊師利ら、機に随い、時に依りて示す所、異類区々なり。」と説かれている。まず神が自ら菩薩号を名乗った承平年中(931〜938)の託宣であるが、実際にその当時に遡り得るものか確証に乏しい。そして「慈悲万行菩薩」という名称の資料的な初見が、実はこの『別願講式』であると考えられることに、ここでは注意しておきたい。〈慈悲〉という仏法の理念を纏った日本の神の姿を貞慶は重んじたのであり、「濁悪の今、下凡の身、なんぞ導師と為すに足らんや。」の一節は、春日神を救済への導き手と捉える信仰の発露である。
中世南都における仏教再生運動の中で、釈迦信仰が興隆することは周知の所であり、殊にそれは末世においてこそ救済力を発揮する釈迦の聖遺物としての仏舎利(遺骨)崇拝として現象している。各種の『舎利講式』を作成し、鑑真請来の舎利を本尊とした唐招提寺釈迦念仏会の始行など釈迦信仰を積極的に推進していた貞慶は、正に南都再生運動の旗手の一人であった。かかる南都仏教の精神的支柱であり、同時に仏法の始原たる普遍性を有する釈尊を、貞慶は本地仏として春日信仰の内に導入した。そこからも本地不空羂索説によって補強された古代以来の氏神信仰的な文脈とは異なり、〈藤氏擁護〉に限定されない開かれた春日信仰の形態を、貞慶が志向していた可能性は考慮されて良い(※注1)
ただし貞慶の本地説も一貫したものとは言い切れない。従来、貞慶による春日一宮本地説の転換が注目されてきたが、最近、新倉和文氏が紹介した『観世音菩薩感応抄』(東大寺図書館蔵)という七段からなる講式の一段「帰依の因縁」には、「春日第一第四宮は世に観音の現れと称す。」とか「これより以降、累代の執柄一門に継塵す。」とあるのだ(※注2)。一宮は不空羂索観音、四宮は十一面観音である。貞慶は中世を代表する講式作家の一人であり、その中には他者(他の信仰集団)からの依頼によって作成されたものも多い。とは言え詳述は避けるが、『別願講式』にせよ、『観世音菩薩感応抄』にせよ、内容の分析から貞慶の個人的信仰世界が表出したものであると判断される。つまり貞慶は藤原通憲(信西入道)の孫であり、傍流の南家といえども、藤原氏としての自覚に立った上で、春日本地仏として不空羂索を選択し、代々の摂関を輩出する藤原北氏(摂関家)の繁盛を語っている場合も確認されるということになる。
これは自身の高唱した本地釈迦説の変動、或いは不空羂索説への回帰であろうか。『観世音菩薩感応抄』の成立時期として、現在のところ建久7年説(1196年・貞慶42歳)と建仁元年説(1201・貞慶47歳)があるが、文中の表現から貞慶晩年の50歳代(59歳寂)の作と想定され、初期の『別願講式』などを素材に作成された『春日権現講式』の本地説は、やはり釈迦となっている。建久説ならば『観世音菩薩感応抄』の不空羂索説と『別願講式』の釈迦説がほぼ併存していることになり、また建仁説ならば『観世音菩薩感応抄』の不空羂索説から『春日権現講式』の釈迦説へとまたも変化したかに思え、二転三転している印象を受ける。『観世音菩薩感応抄』の成立時期をどこに設定するにしても、「貞慶の春日本地説に振幅があった」という結論にはなるであろう。貞慶=本地釈迦説という図式は今や、容易く成り立たないようだ。
かくして貞慶の内部においても、不空羂索観音と釈迦如来は春日一宮本地仏として並び立つこととなった(※注3)。この貞慶における本地説の振幅と見える現象について、もう少し踏み込んで考察してみたい。中世春日説話の集大成たる『春日権現験記絵』の巻16には1段・2段・3段と、春日神が貞慶に憑依した説話が3種収載されている。2段において笠置山に遁世した貞慶は、春日神を笠置における自身の拠点である般若台院六角堂に勧請せんとして、春日本社に詣でる。そして憑依・託宣神である春日若宮神との交渉を通して、「我ゆかん、ゆきて崇めん般若台、釈迦の御法の、あらん限りは。」という和歌を感得し、その後も笠置で「我を知れ、釈迦牟尼仏の世に出でて、さやけき月の、世を照らすとは。」という和歌を感得している(※注4)
ともに春日本地釈迦を明示している。 だがこれは単に説話の問題に留まらないものである。『古社記断簡』(仮題)という『春日権現験記絵』と同時期の成立を予測させる神道書の「御本地事」という項目には、

 釈迦(一)・薬師(二)・地蔵(三)・観音(四)、上人(解脱房)秘したる本地を自然に顕し奉らる。聴聞の人、是を移す。若宮(文殊)異儀無きか。但し五体王子と称す。五所に御座すか。

とある。直後に配された「諸説不同事」には、

種姓法而に更に相い繋属の故、形状相い似て相い障碍せず。展転して相い雑じりて上増縁と為るの故、時に応じ機に随いて示現すること不同なり。或いは釈迦の釈迦、弥陀の弥陀、因位より果満に至り、今能く種子を生ずるは、各別の故なり。或いは釈迦の弥陀、弥陀の釈迦、和合の故にこれを現じ、自在の故にこれを現ず。釈尊の成道、遠近共に実義なるは此の意か。

と続く。本書は短い項目が聊か断片的に集成されており統一性に欠けるが、この二項目は一繋がりの内容と見なければならない。
「御本地事」には、春日本地仏を貞慶が「自然」(じねん)に顕現させたとあり、春日神と交感し得る貞慶の呪能が垣間見える。そして「諸説不同事」からは、頗る文意不明瞭で難解なのだが、冒頭の「種姓法尓に更に相い繋属の故」は、『成唯識論』巻十の一節に重なる。『成唯識論』では、さらに「或いは多の一に属し、或いは一の多に属する故に…」と続き、「形状相い似て相い障碍せず。展転して相い雑じりて上増縁と為る」はその直前に適文を見る(※注5)。これは多仏繋属(多仏信仰)と一仏繋属(一尊帰依)の問題を論じるものである。この一多の議論は、多仏信仰に立脚した貞慶が、釈迦信仰軽視の一向専修を批判する文脈で用いた可能性が最近指摘されている。また「弥陀の弥陀」「弥陀の釈迦」などとあるものは、貞慶の『論第十巻尋思抄別要』(大谷大学図書館蔵)の「一仏繋属」の論議において、

釈迦にのみ属せる属一の人、西方へ往き弥陀に向かう時、但だ弥陀の中の釈迦を見、弥陀の中の弥陀を見ず…

と説かれている(※注6)。これに符合するものであろう。 むろん春日本地説と多仏信仰/一尊帰依とでは、全く文脈が異なるため「諸説不同事」は、いかにもちぐはぐな議論に映るかもしれないが、貞慶の法相教学を援用することで、修行者・信仰者の感得する本地仏の多様性と、そこから開けてくる種々の信仰の可能性が説示されているのである。また「諸説不同事」の下線部は、上記した『別願講式』の「機に随い、時に依りて示す所、異類区々なり。」に等しく、『別願講式』と表現・信仰内容が近似しており密接な関係にある貞慶の『春日大明神発願文』にも、「そもそも内証の本地、機に随いて体を示す。古来云々、是れ一准ならず。」とある。先述のごとく春日一宮本地仏が、貞慶の中で必ずしも一定していなかったことは、こうした貞慶の本地仏観が齎した、ある意味で必然的な結果だったのである。
春日信仰以外にも、八幡・日吉など本地垂迹説によって仏教的に活性化されることで、中世に広範な信仰を獲得した諸社には、貞慶のパターンと類似の説話が確認され、夢想など一種の神秘体験を通して本地仏が感得されている。そうである以上、本地仏は本来的に限定化・固定化し難い流動性を有した可能態として在ると言わねばならない。「諸説不同」とは、機根(宗教的資質)に応じて様々な本地仏が獲得されることである(※注7)。その何れもが信仰の真実であることは、興福寺では「多仏繋属」理論の援用で正当化されていたのである。「諸説不同事」は、「機に随う」という『別願講式』における貞慶の基本的な本地仏理解を、同じく貞慶の「多仏繋属」という信仰的立場で、少々無理な肉付けしているのであるが、中世春日信仰における貞慶の位置の重みは再確認されよう(※注8)

補記 小稿は拙著『神仏と儀礼の中世』(法蔵館、2011年)の第一部「解脱房貞慶の信仰と儀礼」及び、拙稿「南都の中世神話・中世神道説をめぐって―春日社・興福寺・貞慶を中心に―」(伊藤聡編『中世神話と神祇・神道世界』竹林舎、2011年所収)に基づく部分が多い。二神約諾神話をめぐっては、先学の業績の他に、最近では筆者のものも含め、新たな成果が見られ、その厳密な定義や成立期を焦点とする詳細な議論がなされつつある。小稿では割愛せざるを得なかったが、貞慶を重視する立場から、上記の二編にて適宜それらの成果にも論及しているので参照されたい。また関連する一般向けの論稿として、拙稿「中世神話の世界」(斎藤英喜他編『躍動する日本神話』(森話社、2010年所収)もある。


関連情報