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解脱上人貞慶の神祇信仰3 -特に春日神と天照大神をめぐって- |舩田淳一

海住山寺と『観音別行略式』  ここまで、貞慶の神祇信仰の問題について春日本地説と二神約諾神話を対象に考察してきた。中世の春日本地説については、既に一言したように四宮の本地仏は十一面観音であり、その祭神たる姫神は天照大神と観念されていた。そして貞慶もその理解を共有していたことは、講式に明らかである。また二神約諾神話も、春日四宮としての天照が重要な核として言説上に機能していた。約諾せる二神は、共に春日社の瑞垣の内に坐すのである。よって最後に春日信仰の一側面として、天照の本地たる十一面観音信仰について論じたい。
 貞慶の信仰対象は多岐に亘る。釈迦(舎利)・弥勒・観音・地蔵・神祇(主に春日)などが知られ、さらに弥陀信仰や弁天信仰、蔵王信仰まで指摘されることもある。そのことは顕密仏教僧として何ら異とするに足らぬが、従来、それは「雑信仰」と称せられることもあった。しかし以上の信仰対象は釈迦を根本として、有機的な関係性と論理を備えた信仰世界として構築されているのであり、何でもありの場当たり的なものではない。例の春日本地説にしても、釈迦と不空羂索の並存を、没論理とか雑信仰と評することには慎重であらねばなるまい。
貞慶の遁世には、弥勒浄土への往生信仰から、南都の一大弥勒霊場であった笠置山に移住したものという性質が認められる(それだけの理由ではないが)。貞慶の弥勒信仰は真摯かつ篤実なものである。各種の『弥勒講式』を著し、興福寺別当雅縁や、その兄弟である源通親、さらには彼らの背後にある後鳥羽上皇などの権力者とも連携して、弥勒仏を本尊とする興福寺北円堂が再興され、さらに雅縁の発願で大野寺にも笠置のごとく巨大な弥勒磨崖仏が刻まれるに至ったことは常に言及される所である。
 しかし笠置住山期におけるその弥勒信仰も、観音信仰へと徐々に移行し、終の住処としての海住山寺に転ずることとなる。その過程には貞慶の法相教学が介在してことなどが既に論じられている(※注1)。海住山寺は、元は奈良朝に遡る十一面観音の霊場であったと伝承されるが、貞慶当時は衰微しており、貞慶はこれを復興して「海住山寺」と名づけたのである。貞慶は各種の『観音講式』を作成し、観音浄土たる補陀洛山への往生を期している。海住山寺における貞慶の十一面観音信仰は、春日四宮の姫神=天照の本地仏信仰が晩年に具体化したものという側面が認められるが、そのことに関わるであろうと思われる一資料を紹介する。
それは『観音別行略式』と呼ばれる比較的短編の講式であり、高野山金剛三昧院(室町時代写)及び大覚寺(江戸前期写)に伝本が確認される。従来まともに考察の俎上に載せられたことのない資料であるが、大覚寺蔵本には『観音別行略式』という内題の下に「海住山御草」とある。一見、貞慶のことかと思われるが、ニールス・グュルベルク氏はインターネット上に開設されている自身のホームページ内の「講式データベース」(http://www.f.waseda.jp/guelberg/koshiki/datenb-j.htm)において、貞慶の弟子で戒律復興に挺身した海住山寺二世住持の覚真(藤原長房)と見ておられる。果して貞慶或いは覚真作という伝えは、何ら実態的な脈絡を有しないものであろうか。聊か愚考を及ぼしてみたい。
 この講式の冒頭の表白部は、「敬しんで去来・現在一切三宝、殊に観自在菩薩、日光天子に白して言さく。」から始まる。観音菩薩と太陽を神格化した日天子(日光天子)を本尊として礼拝し、「日月星宿の恩徳は無比なり。三光の中、日天は尚勝れたり。」と特に日天を讃嘆する。続いて

なかんずく我が国を日本と号し、其の主を天照と称す。日天の機縁余処に超える有り。 然らばすなわち、若し仏道に入らば、此の土より入るべし。設し浄土に生せば、我国より生ずべし。彼の引導の師、何ぞ遠く外に求めんや。

とある。日本(ひのもと)の主は太陽神たる天照であるから、日天と縁深いとする。かかる日天に導かれて浄土に往生するのだと言い、浄土教の日想観も想起されるが、特に下線部からは、天照・日天との機縁を根拠にした日本国の優位性の主張(神国=仏国の観念)が読み取れる。  表白部に続いて「先ず外相を言うとは…」として、日天の住する天空の宮殿の偉大なる有様(外相)の描写が展開する。そして「次に日徳を観ずとは…」として、煩悩を滅する智慧の光明そのものであり、国土・仏法を守護し、衆生を利益し草木を育む、日天の功徳を説き明かすが、その後半部が重要である。

なかんずく本地はすなわち観音薩タ(土偏に垂)なり……およそ観音の功徳、多く光明の相を現ず。修行を唱うるに、光明行と名づく。すなわち大悲の法門なり。住する所の山は光明山と名づく。彼は補陀洛山なり……なかんずく十一面観音、殊に大光普照と号す。その呪を誦する時、まず遍照荘厳王如来を敬礼す。「遍」は毘盧舎那、大乗には惣じて諸仏法身となし、密教には別して大日如来と称す。二教違わず。万徳の実性なり。しかればすなわち、遍照如来は即く観音なり。観音薩タ(土偏に垂)は即く日天なり。三身離れず。諸仏同体なり。

始めに日天の本地は観音であるとする(本地垂迹説は、もともと仏教概念であり、後に神―仏関係論に適応されたものである)。観音の功徳も光明に象徴され、観音浄土の補陀洛山は光明山とも言うのである。とりわけ十一面観音は大光普照という別名を有し、その神呪を唱える際には、遍照如来(顕教ではこれを法身の毘盧舎那仏とし、密教では大日如来とする)を礼拝すると言う。よって大日如来=十一面観音=日天という同体関係が成り立つ。最後は「南無観音同体日天子…」の南無伽陀を3回繰り返して一座の講を終えるのである。
 まとめると、この講式は観音の中でも特に十一面観音と日天の同体(本地垂迹)信仰を披瀝したものであり、大部分の式文は日天の説明に費やされている。「観音別行」というタイトルは、そのためであろう。また表白部に天照の本地が日天とあったことを加味すれば、大日如来=十一面観音=日天=天照となる(※注2)。これらの諸尊を融即させ、一筋に貫くイメージはむろん光明(太陽)である。
 このように、この講式を日天の講式の一種と考えるとき、興味深い一節を含む資料がある。『春日若宮神主祐春記』(国立公文書館内閣文庫蔵)の永仁四年(1296)十一月二十五日条である。前後の文章は省くが、そこに「一、笠置上人御作日天子講式并霊山講式事」とある。鎌倉後期の春日社家の日記に、貞慶作の『日天子講式』の名が見えるのである(※注3)。 『霊山講式』は、むろん貞慶作『欣求霊山講式』を指す。貞慶作の『日天子講式』なるものは、現在までのところ確認されておらず、貞慶没後83年の記事ではあるものの、著名な『欣求霊山講式』と併記されているのであり、「海住山御草」とされる『観音別行略式』という名の、日天の講式の存在を思えば、この一節の信憑性はむげに否定すべきものではない。日天の講式は、『日天礼拝式』というものが高野山などに伝来しているが、それらに貞慶周辺や南都成立を思わせる識語などが付されているという報告はなされておらず、貞慶のその他の講式との類似性も取り立てて窺えない(※注4)。また『観音別行略式』にしても貞慶真作の講式とさほど類似している印象は受けない(※注5)。よって現段階では『観音別行略式』が貞慶作であるとの確証はなく、弟子の覚真の作とも想定されるが、少なくとも社家の記録にある『日天子講式』が、『観音別行略式』を指している蓋然性は担保される。
 いずれにせよ社家の記録と「海住山御草」の識語から、『観音別行略式』と貞慶周辺、そして海住山寺の問題は無視できないものと考える。『観音別行略式』に春日信仰は現れないが、ここでの十一面観音は、海住山寺本尊のそれであり、繰り返すが春日四宮の祭神天照の本地仏は十一面観音である。また興福寺末寺であった長谷寺の本尊十一面観音も、院政期には天照本地仏としての信仰が確立しており、その後の中世神道説の展開において重きをなしたが、春日四宮の祭神―本地説そのものが、既に知られているように興福寺による長谷寺への本末支配のイデオロギー戦略として成立したものである。十一面観音・天照の信仰は、中世の長谷寺・春日社(興福寺)を繋いでいる。
そして貞慶は笠置山に春日神を勧請し、祭祀の時には本社から神官が出向しているが、春日神と約諾した天照も笠置の般若台院六角堂に祀られたと言い(『笠置寺縁起』)、貞慶がプロデュースした笠置寺十三重塔と法華八講の願文・勧進状には、天照信仰と神国観が鮮明に提示されている。さらに春日神は海住山寺にも勧請され、神人も数名常駐していた。春日神は常に貞慶とともにあり、海住山寺において本尊十一面観音と貞慶が重んじた天照=春日四宮が結ばれてくる所に、『観音別行略式』の成立環境というものを見ておきたい。
最後に略して付言するが、大日如来=十一面観音=日天=天照という『観音別行略式』の論理は、中世長谷寺縁起を代表する『長谷寺密奏記』の骨格に共通しているのであり、院政期から鎌倉初期における南都文化圏の神仏習合言説のネットワークというものを念頭に置く必要もある。貞慶もその只中に位置しており、かかる言説運動の担い手の一人であったことは、上述した春日本地説や二神約諾神話に即しても容易に首肯されるのである。

おわりに  以上、神祇信仰・神仏習合の視角から、「春日本地説」・「二神約諾神話」・「海住山寺における信仰」という3つのトピックを有機的に連環させ、また講式を重要な資料として用いながら、貞慶という南都学僧の一断面に踏み込んだ。貞慶の春日信仰という窓から、このように様々な問題が見通せることは、取りも直さず春日信仰における貞慶という存在の重要性を裏書きしているのであり、ここからさらに多くの議論が派生してくるのだが、今や紙幅は尽きた。春日信仰とは、単なる近代的意味での「信仰」を超えて、寺社を中核とした中世南都社会という大きな問題へと繋がってゆく性質のものであり、そこに広い意味での中世南都宗教史が成り立つ。貞慶を一つの定点として、中世初期の春日信仰の分析を進めることは、そうした目的性のうちになされる基礎的作業である。小稿の先に開かれる世界はまだまだ広い。
そのことと関わって、近年、中世南都をめぐる研究が活況を呈していることは、実に心強い。歴史学・仏教学・国文学などの諸分野から活発な議論が発信され、学際的研究のさらなる進展が見込まれる。ゆえにことは仏教のみでは完結せず神祇の問題が不可欠となるし、その射程は教学・思想の問題のみならず、寺社を基盤とする芸能や説話や和歌、そして美術・造形・建築などの領野に及び、今や中世南都の研究からは、ひとつの「文化学」が立ち上がろうとしている。その焦点をなす人物の一人が、紛れも無く貞慶その人である。 先行研究では限られた部分の言及に留まっていた、貞慶の手になる多種多様な願文・表白・勧進状の集成である『〔貞慶抄物〕』(仮題・観智院蔵)の全体像を紹介し、貞慶とその活動が「中世文化の諸領域に連関しつつ且つその交点にほぼ重なる、という独特な「位置どり」」を占めているという視点は示唆に富む(※注6)。そして従来、議論されることの無かった貞慶と関東(鎌倉幕府)という問題に、『如意鈔』(東大寺図書館蔵)という未刊資料を通して光を当てようとする試みもなされている(※注7)
貞慶研究は、現在でもなお新資料の発掘がなされ、影印・翻刻などによる今後の紹介に俟つ資料も存在する(※注8)。そして未刊の古記録類の中から、貞慶に関わる未見の記述が検出されることもある。そうした新資料の活用と共に、そこからの知見をフィードバックする形で、既知の資料を丹念に読み直し(或いは相対化し)、新たな貞慶論を一歩ずつ組み立ててゆく努力こそが要請されよう。先ずは中世の思想・文化の広がりの渦中に貞慶を点じてみること、そこに貞慶研究の豊かな〈可能性〉が見えてくるであろう(※注9)
来る解脱上人の800年御遠忌を契機として、中世南都宗教史を見据えた幅広く奥行きのある貞慶論が発展することを期待したい。ささやかな考察に過ぎない小稿も、これに資するものとなれば望外の喜びである。

補記 小稿の(1)(2)は拙著『神仏と儀礼の中世』(法蔵館、2011年)の第一部「解脱房貞慶の信仰と儀礼」及び、拙稿「南都の中世神話・中世神道説をめぐって―春日社・興福寺・貞慶を中心に―」(伊藤聡編『中世神話と神祇・神道世界』竹林舎、2011年所収)に基づく部分が多い。二神約諾神話をめぐっては、先学の業績の他に、最近では筆者のものも含め、新たな成果が見られ、その厳密な定義や成立期を焦点とする詳細な議論がなされつつある。小稿では割愛せざるを得なかったが、貞慶を重視する立場から、上記の二編にて適宜それらの成果にも論及しているので参照されたい。また関連する一般向けの論稿として、拙稿「中世神話の世界」(斎藤英喜他編『躍動する日本神話』(森話社、2010年所収)もある。


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