先ず垂迹の方便を讃ずとは、それ当社権現は本朝開闢の初め天照太神の昔、扶佐の重臣となして、国土の安寧を致し、或いは岩戸を太陽に排ひらいて、再び蒼天に廻る。或いは宝剱を中つ国に振るて、更に邪竇を拂ふ。漸く人代に及び済度いよいよ盛りなり。称徳天皇の御宇、神護景雲の宝暦に、廟壇を春日の霊地に移して、潜衛を踰闍の教跡に契りしよりこのかた、弘済漸く四百余歳に及び、巨益、幾万億人と云ふことを知らず。滅罪生善の道、捨邪帰真の謀りごと、善巧無辺にして凡智測り難し。
という特徴的な言説が見える。 大和国春日の地に社が開かれてから400年以上に亘って、無数の衆生の救済・利益を継続する、仏教的神格としての春日神の姿が提示されるが、注目すべきは、「人代」に至り衆生済度がより盛んであるという一節である。つまり、それ以前の文に綴られた天照大神を補佐して、国土の安寧に尽くし、岩戸を開いて太陽を取り戻したこと(天岩戸に籠ってしまった天照大神を天児屋根を含む神々が協働して首尾よく誘い出したという「天岩戸神話」)、葦原中国の邪神を退けたこと(恐らく「国譲り神話」のイメージ)など、古代神話におけるモチーフが「神代」の衆生済度と意義付けられているのである。ここに古代神話の中世的な変容・読み替え=中世神話の形を認めることができる。そしてそのような神話を創出し、藤原氏の氏神という古代的限定性を超えて、広く衆生を救済する存在へと春日神を大きく転換せしめた、春日信仰の民衆化とも言い得る功績は貞慶に帰されてよいであろう。昔日神、児屋根尊に勅して曰く。我が子孫は天統を伝えるべし。汝の子孫は国柄を秉(と)るべし。これより以来、政道の乱を理(ただ)し、同じく其の謀りごとを廻らす。君臣の礼儀変ずることなし。
「日神」は天皇家の祖神たる伊勢の天照大神で、中世では春日四宮の祭神たる姫神と同一視されていた。「児屋根尊」は春日三宮祭神であり、藤原氏の直系の祖神である。二神約諾神話は中世の王権・国家神話として著名である。概ね天照大神と春日神との一種の契約(ここでは「日神の勅」)がなされ、下線部のように天照の子孫が天皇として本朝に君臨し、春日神の子孫がこれを補佐する(すなわち「扶佐の重臣」)というシステムが決定されたと主張するものであり、むろん摂関政治体制を正当化するイデオロギーである(神国思想の構成要素ともなる)。ここでは祖神たる春日神による神代の衆生済度の慈悲は、乱れた政治を建て直すという人代における神胤たる藤原氏(具体的には摂関家)の使命へと連続・継承されることを、貞慶が非常に巧みな論理構成で説き示していることに注目すべきであり、一段に比して二段の言説は、政治性が顕著である。藤氏擁護と衆生済度という理念は、あたかも相互補完するかのように、春日神の実態を構成していたのである。中世の春日神は、正に権力護持と民衆救済を担った顕密仏教の、南都世界における所産であった(※注1)。 こうした二神約諾神話は、天台座主の慈円が『愚管抄』でこれを説いたことが、一般に周知されているが(※注2)、慈円に先立つ貞慶のそれは、単なる政治思想に留まらず、明確な衆生済度という仏教思想に基盤を持つものであった点に固有性が光る。中世社会において春日神は、約諾神話によって天照と対をなしつつ、慈悲・救済の課題に応える開かれた国家神へと上昇していった。だが春日社・興福寺において、この二神約諾神話は、貞慶の『春日権現講式』以前の建久2年(1191)に興福寺僧実叡が著した、藤原多子の南都寺社巡礼の記録である『建久御巡礼記』にも所見する。時ニ天照大神、児屋根命ニ契テ白ク、朕ガ子孫ハ天位ヲツカサドラン、汝ガ子孫ハ国柄ヲトレト、チカヒタマヒキ、其ヨリ以来今ニ違ハズ、大織冠内大臣藤原相公者、天児屋根命廿一代ノ孫也、サレバ日本今ニ持ツ事ハ、タダ春日大明神ノ御計事也、
二神の契り(契約)が説かれ、下線部に国家神話としての色彩が如実に窺えるものの、ここには『春日権現講式』のような慈悲・救済の理念が介在していない。なかんずく日本は、天照大神の子孫、永く天子の位を踏み、天児屋根の苗裔、今に天下の政を佐く。敬神を以って国営と為し、祭礼を以って国法と為す。
同表白集の「請雨啓白」には、大日本国、本はこれ神国なり。天照大神の子孫、永く我が国主と為り、天児屋根命の子孫、今に我朝を佐く。龍神すなわち棄てるべからざるの地なり。
とあって、ほぼ同様の対句を用いた二神約諾神話と思しき結構が備わる。ただし〈神勅〉や〈契り〉といった明確に約諾を示唆する語は見えず、天皇を補佐する摂関の位置は明示されるが、それは神国観念の表現形態の内に捉えられるものである。よって下線部のように、神国における神祇祭祀の肝要なることを説き、また雨神たる龍神に神国の捨棄を誡めるなど、眼目は神事・儀礼の領域にある。国家イデオロギーが基調をなすものの、直接的な政治性には乏しい。但、つらつら重ねて事情を案ずるに、我が大日本国、本はこれ神国なり。天照大神の子孫、永く我が国の主と為り、天児屋根尊の子孫、今に我朝の政を佐け、神事を以って国務と為し、祭祀を以って朝政と為す。善神尤も守るべきの国なり。竜天すなわち棄てるべからざるの境なり。
とある。これは澄憲自身の表白集に収められており、最勝講における澄憲の祈雨は、九条兼実の『玉葉』にも関連記事が見える。 このように、貞慶の二神約諾神話については、同族(信西一族)の澄憲の言説を考慮する必要もあろう。そして慈円における二神約諾神話についても、同じ天台宗の先例として、これは無視し難いと思われる。澄憲の父であり貞慶の祖父である信西には、『信西日本紀鈔』と称される日本書紀の注釈文献がある。近年の中世神話(中世日本紀)研究でも注目されているように、そこには古代神話の変容過程(中世化)の跡が確認できるし、『醍醐雑事記』によれば、かつて信西が次のように語ったという。天児屋根(春日神)が、天岩戸を押し開き(天照・太陽を取り戻した)後に、地上世界に下り、剣をもってヤマタノオロチを退治し、オロチの尾の中よりアメノムラクモの剣を得て、これをスサノオに授与した……(以下略)、と。これは最早、古代神話と同一ではない。関連情報