特集コンテンツ一覧

特集コンテンツ一覧

海住山寺トップページへ

解脱上人貞慶を追慕する人々 | 大谷 由香

 平成24年5月10日、解脱上人貞慶の八百回忌法要が海住山寺で行われました。当日は晴天に恵まれ、初夏の柔らかい日差しの中、寺院・宗派を超えて、多くの関係者が集まり、法要は興福寺と海住山寺の合同出仕という形で執り行われました。
 解脱上人の遠忌事業には、今回のみならず、毎回寺院・宗旨を超えた人々が集まり、それぞれの立場から上人を顕彰なさっていたようです。これはもちろん上人ご自身が様々の寺院に関わり、また様々に活躍されていた結果でしょう。しかし八百年の長きに渡って、上人の業績を伝え続け、報恩の気持ちを忘れなかったその他多くの人々の連なりを無視して、こうした御忌事業は成り立つものではありません。彼らによってこそ、上人の思いは継承されてきたということができるのではないでしょうか。
 解脱上人の遠忌事業には、今回のみならず、毎回寺院・宗旨を超えた人々が集まり、それぞれの立場から上人を顕彰なさっていたようです。これはもちろん上人ご自身が様々の寺院に関わり、また様々に活躍されていた結果でしょう。しかし八百年の長きに渡って、上人の業績を伝え続け、報恩の気持ちを忘れなかったその他多くの人々の連なりを無視して、こうした御忌事業は成り立つものではありません。彼らによってこそ、上人の思いは継承されてきたということができるのではないでしょうか。
 上人が亡くなったのは、建暦3年(1213)2月3日のことでした。上人の跡を継いで海住山寺住持となった覚真は、その翌年の一周忌の時、上人存命中から建設が進められていた海住山寺の五重塔内に、仏舎利7粒を安置しました。このうち2粒は上人ご自身が承元2年(1208)9月7日に河内国交野の新御堂の導師を務めた折に、後鳥羽上皇から賜った東寺と唐招提寺の舎利各一粒であったことが覚真筆『仏舎利安置状』に記されています。
 上人の生前、上人から仏舎利を付与された人物がいました。明恵上人高弁です。明恵上人は建仁3年(1203)2月に春日神に参詣した後、当時笠置にいた解脱上人を訪ねます。明恵上人はこの時に、解脱上人が九条兼実から賜った舎利を付与されました。
それを契機として明恵上人は同年8月8日に『舎利講式』を撰述します(『十無尽院舎利講式』)。さらにこの『舎利講式』を元として、建保3年(1215)には『四座講式』が作られました。『四座講式』は、「涅槃講式」「十六羅漢講式」「如来遺跡講式」「舎利講式」の四つの講式から成るものですが、このうち最初に完成したのが「舎利講式」で、「建保三年正月二十一日夜丑剋草之」とされています。 実はこの年の2月3日は解脱上人の三回忌に当たります。明恵上人がそれを意識されて『四座講式』を作成したのかは不明ですが、伝記によればその年の2月15日に高山寺で行われた涅槃会の勤修にはこの講式が使用されたとのことですから、解脱上人の三回忌の直後に解脱上人ゆかりの「舎利講式」をつとめる明恵上人の胸には、在りし日の友の姿がよぎったのではないでしょうか。
 上人の十三回忌、元仁2年(1225)の時には、海住山寺に経蔵が建立され、貞慶が存命中に入手していた一切経が、そのうちの欠巻を補写補充された状態で、その内部に納められました。この一切経については、すでに『解脱上人寄稿集』No.2で、宇都宮啓吾氏が「解脱上人(貞慶)が遺された一切経」として紹介されておりますが、薬師寺僧などを初めとして、多くの人がその補写にあたったことが知られています。この時には、経蔵と一切経のほかにも堂舎や食堂の建立、室町期の複写が今も残る「観音浄刹之藻」などの本堂への安置(No.57清水健『解脱上人と本堂旧壁画を参照)など、多くの事業が並行して行われたようです。
 さて、上人の十三回忌の時の様子が、以上のように明確にわかるのは、十三回忌の時の願文(「一切経供養式并祖師上人十三年願文)が東大寺の宗性によって書写されて東大寺に遺されているからです。この模様を現在に伝えた宗性は、解脱上人を強く思慕していたことが知られています。宗性は弥勒菩薩への信仰を深めるとともに、上人を偲ぶ思いから、ついに寛喜2年(1230)の秋から上人ゆかりの笠置に参籠します。
笠置に入った宗性は文暦2年(1234)年2月7日から『弥勒如来感応抄』を抄出し始め、その第一巻は、解脱上人の遺文集ともいうべきもので、上人による講式・願文・表白・勧進状などが収められました。弘長3年(1263)に海住山寺で行われていた一切経供養法会に参列した時には、先ほども触れた解脱上人の十三回忌時の願文を書写し、おそらくこの頃に上人の作文集である『讃仏乗抄』を、上人自筆本を参照しながら作成したとされています。
以上のような宗性の解脱上人を偲ぶ行動は、上人の回忌をきっかけとして行われていた可能性があります。というのも、宗性が笠置寺へ参籠した寛喜2年の前年は、解脱上人の十七回忌にあたり、『弥勒如来感応抄』を抄出し始めた文暦2年の前年は、上人の二十三回忌に、さらに、十三回忌の願文を書写し、『讃仏乗抄』を作成したとされる弘長3年の前年もまた、やはり上人の五十回忌にあたるのです。解脱上人を深く思慕していたことが知られる宗性ですから、何らかの形で上人の回忌法要に参加していたのではないかと推測されます。そうした法要への参加がこれら上人の遺文を集める契機となったのではないでしょうか。
さらに、この宗性に華厳学を学んだとされる凝然は、海住山寺の英俊・英哲・英徳・英賢・覚智などのたのみを受けて、71歳の時、延慶3年(1310)7月26日から『四分戒本疏賛宗記』20巻を作成し始めます。それぞれの奥書から、各巻の完成年時を拾い上げていくと、第1巻〔1310年7月26日〕、第2巻〔1310年7月29日〕、第3巻〔1310年8月4日〕、第4巻〔1310年8月9日〕、第5巻〔1310年8月18日〕、第6巻〔1310年8月27日〕、第7巻〔1310年9月5日〕、第8巻〔1310年9月10日〕、第9巻〔1310年9月14日〕、第10巻〔1310年9月19日〕、第11巻〔1312年11月31日〕、第12巻〔1312年12月6日〕、第13巻〔1312年12月16日〕、第14巻〔1312年12月16日〕、第15巻〔1312年12月27日〕、第16巻〔1313年1月6日〕、第17巻〔1313年1月10日〕、第18巻〔1313年1月14日〕、第19巻〔1313年1月23日〕、第20巻〔1312年12月21日〕となっており、第10巻までは順調に筆が進んだものの、そこから2年ものブランクがあり、第11巻からを書き進めるものの年内に書き終わることができないために、第14巻まで認めたところで、まずは末巻の第20巻を年内に書き終えて一旦これを上梓し、その後に第15巻から第19巻までを仕上げていることがわかります。凝然は多くの著作をなしていますが、このように最終巻を先に仕上げてしまうことは、現存の他の著作物からはうかがうことができず、かなり珍しいことだったことがわかります。
第10巻を完成した後、凝然は思うところがあったのか、正安2年(1300)61歳の時から停止していた『華厳五教章通路記』の述作を再開(1311年1月26日〜)し、その合間に『舎利講式』(1312年2月14日)を、『通路記』の述作を終えて『三国仏法伝通縁起』(1311年6月26日〜)、『浄土法門源流章』(1311年12月29日)、『三聖円融観義顕』(1312年2月30日〜)、『法華疏慧光記』(第1〜25巻欠本、第26は1312年7月23日完成〜)と怒濤の述作にかかり、おそらく『法華疏慧光記』第34巻完成頃から、再び『四分戒本疏賛宗記』の述作を再開しています。  『浄土法門源流章』の奥書の最後には、「是今于中最後述作者也」とあり、『四分戒本疏賛宗記』第10巻を上梓した後、凝然は何か体調を崩すようなことがあって、一度は死を覚悟し、自身が生涯中にぜひとも述作し終えておく必要があると感じるものを先に完成させていったのかもしれません。  史料上の凝然と海住山寺僧との出逢いは、『四分戒本疏賛宗記』の著作の1年前で、海住山寺僧英俊から瓶原願応寺の無縁如法経の十種供養に勤仕するよう要請されたことが確認されます(『凝然宛如法経結縁懇請英俊書状』(『華厳探玄記洞幽鈔』巻108の紙背))。おそらくこの時に凝然は『四分戒本疏賛宗記』の述作を口約したものと考えられます。『四分戒本疏賛宗記』は、中国の四分律研究者である定賓の『四分戒本疏』を注釈したもので、この『四分戒本疏』は解脱上人が律宗研究の書として生前殊更重要視した書物でした(『覚真置文』)。実は凝然が『四分戒本疏賛宗記』の最終巻である第20巻を繰り上げて上梓した1312年は、解脱上人の百回忌の年にあたり、海住山寺僧は、その回忌事業の一環として、凝然に上人が重視した『四分戒本疏』の注釈書の述作を請求したものと考えられます。凝然は 海住山寺僧たちの気持ちに応えるために、老齢と体調を考慮して、キリのよい第10巻までをまず作成し、また最終巻を回忌年中に提出して体裁を整え、その後にその間の巻を仕上げていったのでしょう。

 以上に見てきたのは、解脱上人を慕う、解脱上人亡き後のごく一部の人々のごく一部の足跡です。しかし上人の周辺の人々が、宗旨の同一性に関わらず、また直接の師弟関係にはなくても、上人を顕彰するためにいろいろの働きをなされていたことを知ることができるのではないかと思います。 その他有名無名の多くの人々によって解脱上人の業績は讃えられ、現在に連なります。海住山寺は長い歴史の中でだんだんと姿を変え、現在は上人が興された律院としての姿を見ることは難しくなりましたが、かわって地域の人々に愛される檀那寺院として存在しています。少しずつ変わっていく緩やかな歴史の流れの中にあって、しかし八百年前と変わらず、多くの人々が上人を思慕され、今回の八百回忌の法要が勤められましたことを、大変有り難く思います。



関連情報