海住山寺には複数の浄土図が伝来し、それらはいずれも解脱上人貞慶の浄土観を反映して描かれた特色ある作として位置付けることができる。同寺所蔵の法華経曼荼羅(重要文化財、鎌倉時代・12〜13世紀)は貞慶の釈迦信仰、同寺伝来で現在、京都・興聖寺所蔵の兜率天曼荼羅(重要文化財、鎌倉時代・13世紀)【図2】は弥勒信仰、同寺所蔵の阿弥陀浄土図(重要文化財、鎌倉時代・13世紀)【図1】は阿弥陀信仰、そして同寺所蔵の補陀落浄土図(室町時代、先行例は鎌倉時代・13世紀。本図については寄稿集No.57を参照。)は観音信仰に対応した浄土図とみることができる。貞慶は多くの言葉を残した僧であるが、その浄土信仰のありさまが言葉とともにかたちとして豊かに残された稀有な例といえよう。各図は、室町時代の作である補陀落浄土図を別にすると、彩色や精緻な截金など絵画表現にも共通が多く、大きくは隔たらない時期に近しい場で描かれたことが想定される。
【図1】阿弥陀浄土図(海住山寺蔵)
【図2】兜率天曼荼羅 部分(興聖寺蔵) 奈良国立博物館特別展「聖地南山城」図録より転載
これらの浄土図はいずれも独特の構図で描かれており、貞慶周辺で新たに生み出された図様と考える向きが強い。なかでも兜率天曼荼羅、阿弥陀浄土図、補陀落浄土図は、画中に一目で分かるような目立った主尊を配置せず、景観を描くように浄土を表す構図に大きな特色がある。そうした画面がどのように生まれたかについては慎重に検討されており、さまざまな視点から考える必要があるが、主尊を目立たせない景観的な描写については、例えば平安時代(12世紀)の経典見返絵や、大分・富貴寺大堂(平安時代・12世紀)の仏後壁に描かれる阿弥陀浄土図(平安時代・12世紀)が先行例として挙げられる。富貴寺大堂のように前方に彫像の主尊を安置することを前提として描かれた仏後壁であれば、主尊の居場所としての浄土が景観的に描かれ主尊を目立たせないのも理に適う描写といえ、貞慶周辺の浄土図もこうした図様を参照した、あるいは当初仏後壁のような位置で用いる前提で描かれた可能性が考えられる。また一方で経典見返絵を参照し大型の絵画へと展開させたのかもしれないし、日本で伝統的に写し継がれた図様とは異なる宋画など、新渡の図様が参照されたことも想定し得るだろう。
海住山寺に伝来した貞慶周辺の浄土図の中でも、近年行われた本格修理をきっかけに研究が進展することになったのが、兜率天曼荼羅(興聖寺蔵)と阿弥陀浄土図(海住山寺蔵)である。平成24年(2012)に貞慶八百年御遠忌を迎えるにあたり、海住山寺では貞慶ゆかりの寺宝の修理が企図され、阿弥陀浄土図が平成23年(2011)から修理されることになった。本図は異色の画面を持つ阿弥陀浄土図として知られていたものの、保存状態もあって公開の機会は少なく本格的な研究がなされずにいた。しかし本格修理にあたり表装を解体した際、下軸に墨書銘が発見され、本図が永仁7年(1299)に修理された際には海住山寺経蔵(現在の文殊堂)に置かれていたこと、そして「安養知足」すなわち阿弥陀浄土と兜率天で一対をなす浄土図のうちの一幅であることが明らかとなったのである。「安養知足」は、阿弥陀如来の浄土と弥勒の住まう兜率天を指す言葉として貞慶も用いたフレーズで、本図が貞慶の阿弥陀信仰理解に関わる重要な絵画であることが判明することになった。筆者はこれをうけて本図修理中の2012年春に奈良国立博物館で開催した貞慶八百回忌記念特別展「解脱上人貞慶―鎌倉仏教の本流―」の図録に、速報的にその軸木発見の意義を述べる小論を記し(「海住山寺に伝来した一対の浄土図―貞慶の浄土観に関わる新発見―」)、同稿ではその思想的意義を概観するとともに、京都・興聖寺所蔵の兜率天曼荼羅が本来阿弥陀浄土図と一具の「知足」の曼荼羅である可能性が極めて高いことを推定した。両幅はほぼ同じ大きさで表現様式がよく共通するだけでなく、興聖寺の兜率天曼荼羅については、一切経とともに慶長3年(1598)に海住山寺から興聖寺へもたらされたことが周辺史料から確認できたためである(一切経については寄稿集No.03を参照)。そして、その後平成28年(2016)から兜率天曼荼羅の本格修理が行われ、この修理の際に阿弥陀浄土図とほぼ同内容の軸木墨書が下軸に確認されたことにより、両幅の一具性は確定的となったのである。これはさまざまに語られてきた貞慶の浄土信仰や、貞慶周辺の絵画制作に関する大きな発見となった。これら一連の修理とほぼ同時並行で、貞慶の思想史研究も進められており、貞慶の阿弥陀信仰に関わる言説についても詳細に検討された。こうしたなかで兜率天曼荼羅、阿弥陀浄土図の研究も進展したことで、阿弥陀浄土図は令和8年度(2026)、重要文化財に指定されるにいたったのである。このような一連の流れに学芸員としてリアルタイムで関わり得たことは、筆者個人にとっても一生の記憶に残る出来事であったが、何より海住山寺側で主導し企図した修理が、結果的に貞慶800年御遠忌に最もふさわしい修理となったことを、忘れがたい事実としてここに書き留めたい。
では、海住山寺の阿弥陀浄土図をながめてみよう。本図は「阿弥陀浄土図」という名称の絵画としては極めて異色の図様をもつ。まず全体は俯瞰構図で描かれており、中央には蓮池のある池水があり、ハの字形に設定された左右の岸には、豪奢な楼閣が描かれている。画面は、中央軸は明瞭ではなく左右対称でもない。如来は画中に複数おり、中央に配置されたり大きく強調されたりすることなく、他に描かれる諸尊とともに景観の一部として描き込まれている。こうした珍しい画面でありながら、細かく図像をみてゆくと、画中に認められる如来形はすべて阿弥陀如来として図像上齟齬がなく、浄土内での阿弥陀の様子の一つ一つは、周囲の菩薩衆らに向けた楼閣内での説法や、新生の往生者を阿弥陀如来が迎えるいわゆる父子相迎の場面【図3】、来迎から戻って来た阿弥陀如来一行など、阿弥陀浄土図に描かれる阿弥陀如来の姿として基本的に違和感がない。また洲浜に花が咲き、鳥が遊ぶ表現も阿弥陀浄土図に見られるものである。しかしこうしたなかに、文殊や観音と思しい菩薩が独立して聖衆らに礼拝されていたり、各所に天人や僧形が複数いたりするのは、阿弥陀浄土図としては全く異例である。すなわち本図は既知の阿弥陀浄土図のモチーフを使いながらも、通常そこにはない図様を追加することによって、新たな浄土図を作り上げたものと見える。そしてそれは、兜率天曼荼羅と一具で、貞慶の安養・知足観を表現するために構想されたと考えられるのである。
【図3】阿弥陀浄土図 部分 父子相迎(海住山寺蔵)
この阿弥陀浄土図のなかに天人や僧形が描かれるのは、兜率天と阿弥陀浄土が通じている、あるいは兜率天の一部として安養浄土院があるという貞慶の思想に依拠し、通常兜率天までしか訪れない天人や僧形が、阿弥陀如来のある浄土世界へも往来する様を表したためと考えられる。これに関しては、特に貞慶が説いた阿弥陀如来の報土と化土の考え方に即し、本図の画面右側を化土としての安養浄土院、左側を報土としての極楽浄土に振り分け構想されたのではないかという画期的な指摘もある(泉2026)。
本図はこのように貞慶の浄土観を示す絵画として貴重であるが、加えてその絵画表現も注目に値する。壮麗に飾られた殿舎や、如来、菩薩、天人、僧形といった多数の描写には一切手抜かりがなく、殿舎の瓦の文様、敷物一つ一つに施された複雑な文様【図4】、一尊一尊の輪郭線や衣の文様まで精緻に描きこむ。文様のバリエーションも極めて多彩である。また地面に施された金泥による文様はすべて後補で、その下には数倍精緻な截金文様の痕跡も残っている。縦177.0cm、横205.2cmという大きな画面に、ここまでの緻密さが認められるのは驚異的といってよいだろう。並々ならぬ集中力で高い技術を持った絵師が担当したと考えられる。
【図4】阿弥陀浄土図 部分 右中楼閣敷物(海住山寺蔵)
以上のように本図の図様、表現は極めて特徴的であり、それは貞慶の浄土観に重なりあうものであるとともに、絵画としても当時一級の表現が認められる。本図に関する研究は修理を契機に進んだといえるが、制作年代や当初の安置場所についてもすでに議論があり、さらには絵師の問題や浄土図としての史的位置など、検討すべき課題はまだまだ多い。今後も研究は積み重ねられることであろう。
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