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住山寺二世慈心房覚真の在俗時代 その二

 長房もその基礎作りに尽力した後鳥羽院歌壇はやがて新古今歌壇へと移行し、後鳥羽院は正治初度・後度百首、千五百番歌合等を主催、ついに建仁元年 (1201)、和歌所を設置、新古今集撰進の勅を下した。官僚長房が撰者との連絡その他に当たっていたことが諸記録から知られる。この間、長房はさしたる停滞もなく、実務官僚としての任に当たっていたと思われ、建仁二年には土御門天皇蔵人頭に任ぜられる。但し、在位中の土御門天皇の周辺は人少なで、上卿の多くが後鳥羽院御所に参集しがちであったことが諸記録から伺える。長房自身も、後鳥羽院丹波局の産んだ皇子を養育したり、相変わらず後鳥羽院との関係は深い。定家はそうした長房を後鳥羽院の「精撰近臣」と評している(明月記)。
  承元二年(1208)、貞慶は交野御堂の堂供養を務め、その際後鳥羽院から仏舎利二粒を賜った。この時の後鳥羽院側の使者は長房であった。
 この仏舎利を貞慶は海住山寺に安置している(海住山寺文書「貞慶仏舎利安置状」)。この翌年長房は参議を辞した。承元四年(1210)九月十九日、後鳥羽院臨幸のもと、笠置寺で瑜伽論供養が行われた。導師は貞慶である。翌二十日、同じく雅縁(源雅通男、源通親同母兄、興福寺別当。雅縁と後鳥羽院との密なる関係については諸先学の論考がある)の瓶原山庄の堂供養が行われた。長房が出家したのは、翌々二十二日である。 後鳥羽院自身は十八日から二十日まで南都にいたようで、二十二日は京で歌会を行っている。海住山寺及び長房の出家について平岡定海氏は、「海住山寺は雅縁の山房を基盤として、後鳥羽院の御幸を仲介として、貞慶を勧請開山とし、長房を檀越として発足した」と明確に示されている(注1)。
長房の出家は、外縁的には、先に後鳥羽院・雅縁・貞慶の関係があり、この縁に寄り添うかたちで遂げられたものである可能性が高い。後鳥羽院としては、自らの近臣を貞慶のもとに置くことにより、貞慶との関係を強化しようとしたとも推測されるのである。 しかし、そういった事情はともあれ、長房自身の内部に出家への意志があったことは確かであろう。長房はなぜ出家したのか。
出家時の年齢は四十歳余。当時、出家する者は多くいたし、その年齢もまちまちであるから、長房の出家は早いとも遅いとも言えない。問題は、なぜ出家したのか、ということであろう。しかし、長房出家の理由を語る資料は殆どない。唯一その理由を語るのは、官史記という書である(注2)。そこには、「後鳥羽院、天下の事を思しめし立ちける時、長房卿は諫めかね奉りて、遂に出家」(「後鳥羽院天下事ヲ被思食立ケル時、長房卿ハ諫カネ奉テ遂ニ出家(于時右大弁宰相)」)したとある。つまり、後鳥羽院が承久の乱を起こそうとした時、長房はこれに反対したが、ついに諫めることができず出家した、というものである。この記事はその後大日本史料にも採られ、以後長房の出家は、後鳥羽院の野望を止めかねてのものと理解されるようになった。
 しかし、長房出家の承元四年は、承久の乱の十年以上前だから、この解釈には無理があるように思われる。ただ、こうした理解は根拠のないものとは言えない。後鳥羽院近臣中の近臣と言われた長房だが、関東の事情に最も詳しい人物であった吉田経房を伯父に持ち、親幕派の九条家に仕えた彼が、関東の事情に疎かったとはとうてい思われないからである。官史記の理解は、こうした背景から導き出された面もあるだろう。しかし、出家の理由を承久の乱に結びつけることはやや早計である。
 後鳥羽院は、建久九(1198)年に位を土御門天皇に譲り、上皇となった。退位後の後鳥羽院は、実に様々の分野に旺盛な興味を示す。先に述べたように、長房は後鳥羽在位当時は蔵人権佐であったが、建久六年に辞し、以後元久元(1204)年に辞するまで弁官、その後参議となった。その間、土御門天皇の建仁二(1202)年には、蔵人頭となっている。土御門天皇が後に承久の乱を引き起こすことになる後鳥羽院、順徳天皇の対鎌倉政策に懐疑的であったことはよく知られるところである。その土御門天皇は承元四年十一月に順徳天皇に位を譲っている。この点から、目崎徳衛氏は長房の出家を「早すぎる皇位継承への諌言」ではないかとされた(注3)。長房が、後鳥羽院と土御門天皇との間で苦慮したらしいことは明月記等から伺えるが、土御門天皇退位への情勢が明確になりつつあった承元四年という年の出家は、確かに長房なりの身の処し方として理解できるものがある。
 官人として後鳥羽・土御門両帝の間で苦慮したこととは別に、長房にはすでに在俗時から道心が認められる。特に明恵との関係については、田中久夫氏、奥田勲氏の研究があり、それを参照されたいが(注4)、例えば承元三年四月熊野参詣の途次、白方の宿所で明恵に会い金獅子章の注を求め、明恵はこれを七月に完成している(『行状』等)。また、明恵臨終の場である高山寺禅堂院には、明恵画像とともに、覚真の真影が置かれたと『縁起』は伝え、その由縁を「在家当初師檀之契不浅之上、於当山興隆、殊有其功。故被写安影像之由、彼存日上人直被語申畢」と言う。すなわち、長房は明恵に信仰上の助言を求め、明恵は長房に実務上の支援を求めているといってよいであろう。貞慶との関係については、出家以前の交流を示す資料に乏しいので、確たる事は言えないが、おそらく、当時の明恵、貞慶の存在を考慮すれば、長房がかなり早い段階から、旧仏教側の教義に共鳴し、そこに自らの道心を託していた可能性は高いのではないかと考えられる。
 出家後も長房は後鳥羽院との関係を続けている。また嗣子定高は九条家の枢要な家司でもあり、長房が父光長から受け継いだ勧修寺流実務官僚の道を、定高は忠実に歩んでいたといえる。したがって、長房の出家は、彼が暖めていた道心と、後鳥羽院の意向―それはおそらく南都政策の一環ではなかっただろうか―とが合致した結果ではないかと考える。もちろん土御門天皇に対して、長房がある種の同情を抱いていた可能性は高いが、それは彼の立場であえて口にする類のものではなかったのではなかろうか。


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