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解脱上人小話 第二話『解脱上人 臨終の式を厳修なさる』

臨終の用意は二世の大要なり。もし平生に深く錬磨せざれば、
定んで最期に違乱あるべし。一念の善悪は百年の行に過ぐ。
順次の昇沈はただ此のことに在るか。

 上の文章は、近年東大寺で発見した解脱上人著『観世音菩薩感応抄』に出る一文です。当時の人々は臨終の一瞬をことのほか大事にしておりました。たとえば、天台宗の源信和 尚は「最期の一念の心力こそ勝れている」として臨終の行儀を明らかにし、自らも「定印を結んだまま端座して遷化した」と伝えられておりますし、市の聖と呼ばれた空也上人も 「香炉をささげ持って西方に向かって端座したまま入滅した」と史伝に記されております。この点、解脱上人も同様で、死を意識なさった建暦三年(1213)二月三日、にわかに臨終 の式を行い、「西南の方角に在る観音の補陀落浄土に向かって端座して観音の宝号を唱えつつ入滅した」と伝えられております。
 人は必ず生きている以上、いつかは死ななければなりません。釈迦如来は「人の命のはかないことは一呼吸している間に死に果てる、それほどはかないものである」とお示し下 さいました。上人もまた

死というものは老いの終わりであり、かつ病のはてにおとずれるものである。そのときは身体の力が衰えて、元気であった頃の考え方と違ってくるものだ。そして、いよ いよ死を迎えんとするときが来ると、さまざまな妄念が競い起こってくるようになり、本心を失って狂乱したり、大事な家族に心を引かれて涙したり、ときには昏睡したり して、正念に安住することが千に一つもないのである。(『別願講式』筆者意訳)

とおっしゃり、必ずくる人の死と、臨終のときに昏睡したり心が乱されるあり方とを示して下さいました。では、昏睡したり心を乱されたりすることは、なぜいけないのでしょう。 上人は「正念に住することができなくなるからだ」とおっしゃっておられますが、実はここに大きなポイントがあります。人は死ぬと生死の世界(六道迷いの世界)を輪廻すると いいます。輪廻すれば、生老病死や愛別離苦等の四苦八苦を絶えることなく受け続けることになってしまいます。この輪廻苦悩の束縛から解脱する道を示したのが仏教でした。そ こで、人々は仏道修行に精励するわけですが、臨終を迎えたとき妄念を起こして正念に住することができなければ、せっかく一生かけて修行してきたことがすべて無駄となり、悪 道に堕ちてしまうと上人は示して下さっているのです。そこで上人ご自身も、臨終にあたっては「観音の宝号を唱えつつ入滅する」という臨終の式をなさったのです。
 実は、上人が臨終の式をなさったのは建暦三年が初めてではありませんでした。笠置寺に蟄居なさった翌年の建久六年(1195)頃からご病気がちになられ、正治元年(1199)に なって死を覚悟されたのか「臨終の式」をなさったことが『春日権現験記』に記されております。それによりますと上人は、八月になって俄に重病となられ、二十二日の酉(午後 六時)のとき、尋常ならざる気色を示され、人を集めて居所を掃除させて浄衣を着し、礼盤の上に錦の布を敷かせ、香炉を持って威儀を整え、釈迦牟尼如来と『成唯識論』(法相 宗の根本論典)ならびに護法等の十大菩薩や戒賢・玄奘・慈恩等の高祖大師に対して深々と礼拝・上告し、死して後には釈迦如来の後身である弥勒菩薩の兜率浄土に生まれたいと 強く願われたと伝えられております。なお、この時点で上人が弥勒の兜率浄土を願生なさったのは、上人の複合型信仰(釈迦・弥陀・弥勒・観音等)の中心が、このときは弥勒に あったからです。
 いずれにせよ、上人は早くから臨終正念を重視しておられたことが知られます。このような臨終への真摯な思いがはたして私たちにあるでしょうか。「いのち」を見つめること なく、あって当り前の命と思い込んで暮らしている私たちですから、死に臨んで恐怖し、惑乱してしまうのです。ところが、上人は唯識の教えを学ぶ中で「いのち」のあり方を深 く見つめられるようになり、いかに死んでいけばよいのか、いかに大切な人を見送ればよいのかという答えを私たちに示して下さいました。そのことが、『弥勒講式』『別願講式』 『観世音菩薩感応抄』『唯識論尋思鈔別要』『臨終之用意』『命終心事』等の書物に繰り返し繰り返し示されているのです。それによりますと、人は一生の間に悪の種子を阿頼耶 識に貯え込み、その種子が臨終のときに強い自体愛を起すことによって潤されて中有(中陰)という生死輪廻の中間存在に移行し、ついに新たな輪廻の命を結ぶということを『瑜 伽論』や『倶舎論』を駆使して説示なさっておられます。
 輪廻を促す自体愛とは何でしょうか。これについて上人は、我が身に執着し、我が家族や財産に強く執われる「貪愛」であるとおっしゃいました。死を迎えると人はさまざまな 妄念を起すものですが、それが自体愛というもので、自体愛が起こると苦労して積んだ修行も空しくなりはて、迷いの世界(苦悩の世界)を輪廻してしまうことになるのです。で は、自体愛を起さないためにはどうすればよいのでしょうか。上人は、その人の近くから愛着あるものを遠ざけ、食欲が出るような香ばしいにおいも立てないようにし、親しい人 が来られても一々知らせてはいけない等々と、事細かく諭しておられます。そして、信仰する仏菩薩の像を安置し、心が散乱しないよう常に念仏や宝号等を一緒に唱えてあげなさ い。そうすれば諸尊の加護を受けて、「悪道に堕ちいるはずだった人が中有から身をあらためて浄土に生ずることができるでしょう」と述べておられます。
 鎌倉時代の初期に、このような「安らかな死に方」がすでに教示されていたことに大きな驚きをおぼえます。貪愛(自体愛)の起こるにまかせ、死の恐怖に押しつぶされて死ん でいく今の私たちのあり方は、一種の「精神的退行」なのかも知れません。臨終正念こそ、まさしく「終わりを全うする道」の一つであったといってよいでしょう。では、上人は次 の生涯(順次生)において浄土に生まれることの意義については、どうお説きになっておられたのでしょうか。これについては、次回お話することにいたします。


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