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解脱上人小話 第三話『解脱上人 浄土を願生なさる』|楠 淳證(龍谷大学教授)

宿世の機縁によってすでに上生を遂ぐ。見仏聞法して須らく勝位に 進むべし。賢劫星宿、諸仏に歴仕し、住行向地、漸次増進し、遂に 花王の宝座に昇り、宜しく大覚の尊号を受くべし。

 上の文章は、解脱上人がお書きになった『弥勒講式』の一節です。仏教では浄土への往 生を勧めますが、なぜに私たちは浄土に生まれる必要があるのでしょうか。この点につい て上人は上のように、浄土に生まれれば仏に親しく見え、教えを聞くことができるからで あるとおっしゃいました。今は釈迦仏のような仏さまのいらっしゃらない無仏時代ですか ら、直接、仏に教え導かれて修行することなどできません。ところが、浄土に生まれれば それが可能となり、速やかに修行を進めることによって、十住・十行・十回向・十地とい う菩薩の階梯を次々と昇り、ついに仏と成ることができるといいます。ここに上人は、大 きな意義を見い出されていたことが、上の文によって知られます。
最近は「ほとけ」というと「死んだ人」を連想なさる方が多いようですが、本来は真理 にめざめた尊者(仏陀)のことをいい、一切の煩悩を断じ尽くして絶対的な安らぎの境地 に至られた私たちの理想的存在を「ほとけ」というのです。しかし、歴史上の唯一の仏陀 である釈迦牟尼仏が入滅なさってからすでに1500年あまりが経過し、未来仏である弥勒が 出現なさるまでにはまだ56億7000万年もの歳月がかかるという認識が、上人を初めとする 当時の人々に共通してありました。
 このような中、上人は当初、「世間の風潮」にしたがって阿弥陀仏の浄土に生まれたい と願われました。ところが、阿弥陀仏の浄土はあまりにも勝れた浄土であり、一阿僧祇劫 もの修行を積んだ十地の位の菩薩のみが初めて往くことのできる世界であるとお知りにな ると、「涯分」を考えてやむなく断念なさいました。では、一阿僧祇劫とはどれほどの時 間なのでしょうか。劫について芥子劫という比喩がありますが、それによると四十里立方 (日本里の一里は約4q)もの大きな入れ物に芥子粒(1〜2o)を一杯にして、三年に 一粒ずつ取り除いていって空になってしまう時間を一劫というのだそうです。また、阿僧 祇とは「無数」とも訳されますから本来は「数えきれない」という意味なのですが、数の 単位としても0が56箇もつく膨大な数量にあてられました。ですから、一阿僧祇劫にも およぶ長時間の修行というのは、私たちの一生を数えきれないほど積み上げていかないと 到達できないものであるということになります。
 そこで、「常没の凡夫」という自覚のあった上人は阿弥陀仏の浄土を願生することを先 々の希望としていったん据え置かれ、次に弥勒菩薩が現在まします兜率天に上生すること を願われました。上人は「弥勒は菩薩と見なされているが本体はすでに仏であるから兜率 天も浄土である」と判断なさいました。兜率天という天界は、私たちが住まう世界(娑婆) の上空にあるところから、そこに生まれることを「上生」と呼び習わしておりました。上 人は娑婆世界の本師である釈迦如来と弥勒を一体の存在と見ておられましたから、上人の 弥勒信仰の背後には強固な釈迦信仰が常にありました。したがって、この頃の上人の信仰 はすでに、釈迦・弥陀・弥勒を中核とする複合型信仰(他に薬師・地蔵・観音・春日権現 などを含む)であり、その比重が弥陀から弥勒に移ったのが上人の「兜率願生」のあり方 であったと考えることができます。ですから、これ以降も上人は、しばしば阿弥陀仏に対 する恋慕の情を随所にお示しになりますが、しかしこの頃より上人の信仰の中心は明らか に弥勒に移り、兜率浄土への上生を欣求されるようになりました。
  浄土 ―――― 。この言葉には本来的に、煩悩の穢れを離れた清らかな世界という意味があ ります。唯識の教えによれば、真実の浄土は悟りを開いた仏陀の前にのみ現われるもので あり、衆生が往くべき浄土は如来の大慈悲によって具現された「仮のもの」であると説示 されてまいりました。そして、私たちのために仮為された浄土を大きく他受用土(報土) と変化土(化土)の二種に分け、報土は十地の位に至った勝れた菩薩のみに対して示現さ れた浄土、化土は十地の位に至るまでの菩薩や凡夫のために示された国土であるとしまし た。前者の象徴的存在が阿弥陀仏の極楽浄土であり、後者には弥勒の兜率浄土や観音の補 陀落浄土などがあります。
  上人の兜率願生の思いは、第二話でお話した正治元年(1199)の「臨終の式」の記述に も現れますので、この頃までは弥勒信仰が中心的位置を占めていたかと思われます。とこ ろが、東大寺で発見した『観世音菩薩感応抄』になると、観音信仰が前面に示されるよう になります。本書の冒頭で上人は『成唯識論』の文を引き、衆生には「多にして一に属す」 あり方と「一にして多に属す」あり方とがあることを指摘し、自らに因縁の深い尊者とし て釈迦・弥勒・弥陀の三仏と観音・地蔵・文殊の三菩薩を示した上で、「憑むべきは観音 の本誓なり」と述べておられるのです。したがって、この頃の上人の信仰は釈迦・弥勒・ 弥陀・観音を中核とする四尊複合型に変容し、その比重が観音に置かれるようになった と考えるべきでしょう。そして、建仁元年(1201)の五月、上人は「世間男女等のために 別願をもって」三段式の『観音講式』を著されました。注目すべきはその中に、世間男女 等のために著したといいつつもすでに、「我と共に菩薩道を実践せん」という観音の誓願 を明示されていることです。このあり方が承元三年(1209)の六段式の『観音講式』に反 映されていくのであり、その点からも上人の観音信仰が笠置時代から始まったものである ことは間違いないものと思われます。なお、建仁元年の『観音講式』では明らかに釈迦・ 弥勒・弥陀・観音の四尊複合形態が確認できるのですが、承元三年の『観音講式』ではさ らに釈迦・弥勒・観音の三尊複合型に変容します。では、弥陀がまったく消え去ったかと いえばそうではなく、示寂の前年に口述筆記された『観心為清浄円明事』には「予深く西 方を信ず」と述べていますから、この四尊を中核とする複合型信仰こそが上人の信仰のあ り方であったろうと思われます。もっもと、私たちは凡夫ですから一阿僧祇劫の間は一世 界(一須弥界・一四天下)にしか生まれえません。そこで、臨終時に一尊の所居を願うの であり、その一尊の所居が弥陀から弥勒そして観音へと移ったのが、上人の信仰の特質で あったといってよいでしょう。
  なお、私たちの住まう国土より西南の方角に観音の補陀落山があるといわれております が、二つの『観音講式』を通して見る限り、上人は観音の補陀落山もまた往きやすい浄土 であると解釈されていたことが知られます。興味深いことです。


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