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解脱上人貞慶と唐招提寺の釈迦念仏 | 細川涼一

その一仏は釈迦如来にしかず。われら大恩の大師ゆへに。
その浄土は霊山浄土にしかず。本師常在の地ゆへに。
(中略)
(法華経)寿量品の説のごとく、
「一心に仏を見たてまつらむと欲して、自ら身命を惜しまざれば、
時に我および衆僧、ともに霊鷲山に出づ」と。
ああ、世尊、遺言ありて、霊山はひそかにわれらを待つなり。

──貞慶上人『欣求霊山講式』より


はじめに  建久4年(1192)の秋、貞慶上人は興福寺を出て笠置寺に隠遁する。巨大な弥勒磨崖仏がそびえるこの山寺は、同9年に上人自身「いにしへに此の山を称して霊鷲山となし」(『弥勒如来感応抄』『讃仏乗抄』所収の敬白文)と述べているように、釈迦が法を説いた霊鷲山(りょうじゅせん=霊山〔りょうぜん〕)に古来なぞらえられた聖地であった。

笠置寺の十三重塔と釈迦像  翌年に上棟された般若台六角堂を皮切りに、上人は伽藍の造営を進めてゆく。同7年12月の「法華八講勧進状」(『弥勒如来感応抄』所収)において上人は、「あるいは四百歳の講会を紹隆し、あるいは十三重の塔婆を建立す。(中略)これを霊鷲山の般若塔に擬す」と述べ、霊鷲山の塔をあらわす十三重塔の造営を表明している。
同9年に完成した塔は、一世紀余りのちの元弘元年(1331)に焼亡してしまうのだが、大和文華館蔵《笠置曼荼羅図》(鎌倉時代、重要文化財)(1)は、その輪奐の美を偲ばせてくれる。弥勒磨崖仏と高さを競うように並び立つ朱塗りの塔は、上人による釈迦信仰と弥勒信仰との統合を端的に示すとともに、霊鷲山と重ね合わされた笠置寺の性格を具現化する象徴でもあった。
 上人による供養願文には、塔に安置された仏像・経典と、内部を彩った壁画の題材が列記されている。その一つ「皆金色一尺六寸釈迦如来像一体」は、初層中央に安置された本尊であろうか。像容は明らかでないが、談山神社蔵《法華経宝塔曼荼羅》や中尊寺蔵《金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅》(ともに12世紀)で九重塔の初層に描かれるような、転法輪印を結ぶ金色の坐像であったかもしれない。そうであるなら、霊鷲山としての笠置の景観との連動のもと、霊山における釈迦の説法があらわされていたことにもなろうか(2)
 霊山といえば、貞慶上人が始めた霊山会にもふれておきたい。その会場となった般若台の六角堂本尊も釈迦如来像であった。その像容や大きさについての記録はないが、大正時代には興福寺中金堂に安置されていた木造釈迦如来立像(像高66.1cm、鎌倉時代)は、この般若台本尊像と伝称されていたという(3)。もっとも写真図版が伝えるその作風を、貞慶上人の時代にまでさかのぼらせることは難しい。しかし毎年の霊山会に興福寺の学僧6名が招請されていたこと、この像の厨子扉と伝えていた《護法善神像》12面(鎌倉時代〔14世紀〕、興福寺に現存)(4)に般若台厨子絵を写した可能性が指摘されていることを思えば、その像容と由緒に般若台像との何らかの脈絡を憶測してみたくもなる。

欣求霊山講式と釈迦来迎図  十三重塔造営の表明に先立つ建久7年(1196)秋、貞慶上人は『欣求霊山講式』を著した。上人は奥書で、その撰述は「同法等」の勧めによるものであったと記している。「南無大恩教主釈迦如来、決定往生霊山浄土」の声が、霊鷲山たる笠置の山上にこだましたことであろう。
 貞慶上人の在世中における『欣求霊山講式』の受容を、明確に証言する作品が存する。承元3年(1209)6月の墨書銘をもつ《釈迦来迎図》(重要文化財、東京・根津美術館蔵)(5)である。画面下方に記される「願於来世恒沙劫、念々不捨天人師、如影随形不暫離、昼夜勤修於種智」が『欣求霊山講式』の末尾にあること、釈迦の来迎という図様も「いま近くに望むところは、仏の来迎に依りて霊山に生まれむと欲す」に対応することが指摘されている(6)
 承元3年といえば、上人が海住山寺に移住した翌年にあたる。観音信仰を深めてゆく時期にあたるが、笠置寺時代以来の霊山浄土往生信仰は鼓吹されたのであった。同じ年の12月、上人が撰した「金色一尺六寸の釈迦如来像を造り奉らんと欲する事」(7)には「仰ぐところは釈迦・弥勒の引接なり。傾くところは霊山・都率(兜率)の往生なり」とあり、海住山寺時代の貞慶上人周辺で、霊山往生を願っての釈迦像造立がなされたことを伝えている。

峰定寺釈迦如来像と貞慶上人の結縁願文  承元3年につくられた釈迦像の行方は知られない。しかし貞慶上人が笠置寺に住していた正治元年(1199)、同様に金色の仕上げと一尺六寸という大きさで造立された像が現存する。「丹波入道帰阿」こと藤原盛実(1160〜1226)が願主及び施主となって造立された、峰定寺の木造釈迦如来立像(像高51.4cm、重要文化財)(8)がそれである。
大正10年(1921)、貞慶上人の結縁願文などさまざまな納入品が像内から取り出された。頭部内に納入されていたと思しい水晶製五輪塔形舎利容器の外箱には、「臨終正念霊山往生」という盛実らの祈願が書きつけられている。当期の釈迦像としては一般的ではない立像で、しかも片足を微かに踏み出す姿に造形されており、『欣求霊山講式』にも記される釈迦来迎の表象とみることができよう。
貞慶上人は結縁願文の末尾で、「仏子貞慶、生々世々、此の沙門と常に善友をなし、共に霊山に詣りて、同じく本師(釈迦)に仕へむ」と記している。この一文の趣旨には、『欣求霊山講式』の跋文の一節「若し同志の人あらば、願はくば霊山に会はむ」とも共通性が認められよう。なお「詣」という表記にあえてこだわるならば、峰定寺像において上人は、「往生」に比して意志的・能動的なニュアンスが強い「往詣」をもって自らの願意をしたためたとも解せようか。
ここで鎌倉時代仏教史全体から見つめ直してみれば、貞慶上人の希望は、日蓮(1222〜82)の「師弟ともに霊山浄土に詣り、三仏の顔貌を拝見し奉らむ」(「観心本尊抄副状」)といった言述に70年以上先んじていることにも気づかされるのである。

海住山寺の法華経曼荼羅  峰定寺像の納入品で貞慶上人が記した願いに関し、想起したい絵画がある。上人の関与が推測されている、海住山寺蔵《法華経曼荼羅》(重要文化財)(9)である。
矩形をなす画中の左方に霊鷲山がそびえ、その麓に坐す釈迦が、眉間から光を放つ。『法華経』序品にもとづく描写と指摘される。
「法華経曼荼羅」は重要文化財の指定名称であり、近世には「法華曼荼羅」と呼ばれていた。しかしながら中世において「法華曼荼羅」の名でも呼ばれた法華経変相図とは明らかに趣を異にしていよう。それらのごとく、法華経の構成に沿って経意を詳しく説明しているわけではないからである。『法華経』を踏まえていることは確かだろうが、作品の主題はむしろ、釈迦のいます霊鷲山にこそ力点があったのではないか。貞慶上人は「笠置寺十三重塔造立供養願文」で、「扉の後の左右障子等に、霊鷲山・清涼山・釈迦五劫等図六幀を図し奉る」と記している。この「霊鷲山」の図とは、たとえばこのようなものではなかっただろうか。
注目したいのは、説法する釈迦に向き合い合掌して坐す、一人の僧の姿である。峰定寺像の結縁願文にも披瀝された、霊山に往詣して釈迦に仕えようという貞慶上人の希望が、そのままあらわされているかのような描写である。それかあらぬか、この僧の面差しは、肖像画が伝える上人の風貌にも通じるように感じられてならない(10)

霊山浄土信仰のゆくえ  さきにふれた峰定寺像や根津美術館本は、貞慶上人の影響を在世中において証言するものであった。上人の没後ではどうか。慶政(1189〜1268)により貞応元年(1222)に成った『閑居友』に収録される、「何となく頼み慣れにしかば、霊山浄土に生まればやと思ふなり」と語る「某の院の女房」の話をみておきたい。病に伏したこの女房は、あたかも臨終行儀における阿弥陀像のごとく、「釈迦仏の御手に五色の糸つけて」安置していたという。慶政が明恵(1173〜1232)など貞慶上人をめぐる人々と交流をもっていたことからすれば、この女房の信仰も、貞慶上人の影響を何らかのかたちで受けていた可能性があろう。
 ただし慶政はつづいて、「今、思ひみるに、この浄土はなべて人の願はぬとかや」と綴っているのである。貞慶上人の没後約10年を経て記されたこの見解は、霊山浄土への往生を祈る信仰がさほどの広がりと持続をみせなかった消息を暗示するのではないか。
 そうした消息は、『閑居友』完成から数年を経た嘉禄元年(1225)、貞慶上人の孫弟子にあたる海住山寺の僧覚澄が造立した木造釈迦如来坐像(東大寺蔵、重要文化財)(11)に反映しているのかもしれない。覚澄自身ではなくその母親の救済を祈っての造像であるが、その願文に記されるのは「往生弥陀国」つまり極楽往生祈願なのである。

結びに代えて──春日信仰美術のなかで  しかし貞慶上人没後もその遺響が持続するなか、霊山浄土に関する著述の受容は南都において持続していた。舩田淳一氏がとりあげられた『春日若宮神主祐春記』の永仁4年(1296)11月25日条の一節、「一、笠置上人御作 日天子講式ならびに霊山講式の事」は、この時期における『欣求霊山講式』の受容を伝える(12)
春日の神職の記録にこれがみえることは興味深い。貞慶上人をめぐる霊山浄土信仰の造形の系譜はこの時期、春日信仰のなかで新たな開花をみせたともいいうるからである。
延慶2年(1309)に奉納された巨篇、《春日権現験記絵巻》(宮内庁三の丸尚蔵館)の掉尾を飾る、著名な一節を引こう。

わが神すでに諸仏なり。社壇あに浄土にあらずや。
しかれば浄瑠璃・霊鷲山、やがて瑞籬のなかにあり。
補陀落・清凉山、なんぞ雲海の外にもとめむ。

 この一節については近年、貞慶上人の著『春日御本地尺』にその原形がみられることが明らかにされた(13)。ここに謳いあげられた春日社頭浄土観は、《験記絵》と相前後して盛行をみせた春日曼荼羅の思想的背景としても論じられるところである。
また貞慶上人は、『欣求霊山講式』でも言及しているように、霊鷲山を『法華経』のみならず『大般若経』の説処としても讃歎した。そのイメージの継承と社頭浄土観との重なり合いのもと、春日曼荼羅のバリエーションのなかでも類例の稀な《大般若十六善神像》(海住山寺蔵)(14)は生み出されたのであろう。画面上方に描かれているのは、やがて能『春日龍神』でこう謡われるに至った風景である。

昔は霊鷲山 今は衆生を度せんとて
大明神と示現し 此の山に宮居し給へば
すなはち鷲の御山とも 春日の御山を拝むべし

*史料の引用では、漢文は読み下し、表記は一部調整して掲出した。また一部、カッコ書きで意味を補ったことをお断りしておく。

[付記]
霊山浄土信仰については、都守基一「霊山往詣について」・「霊山浄土信仰の系譜」(『日蓮教学研究所紀要』14・15、1987・88年)が基本論文であり、ことに後者は、信仰史の展開における貞慶上人の意義についても詳しい論及を含む。本稿でも通史的理解と関連史料の把握において負うところが大きかった。


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