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貞慶上人没後の造像にみるその遺響-興福寺食堂千手観音像の場合- | 杉崎貴英(京都造形芸術大学非常勤講師)

はじめに - 造像にみる貞慶上人の遺響  貞慶上人の宗教活動が、その没後にも影響を及ぼしていったことは言をまたない。それは造像という局面においても、南都文化圏における諸事例からうかがうことができる。
 今春(2012年)、八百年御遠忌を記念して奈良国立博物館で開催される「解脱上人貞慶」展には、そうした作例もいくつか出陳される。同館所蔵の善円作十一面観音立像(承久3年〔1221〕、像高46.7cm)[出陳No.94]、伝香寺の地蔵菩薩立像(安貞2年〔1228〕、像高98.2cm)[出陳No.86]などがそれである。これらの像内墨書銘あるいは納入品には、春日社一宮の本地を釈迦如来とする点などに貞慶上人の春日信仰の影響がみられるほか、興福寺の僧を少なからず含む造像関係者にも、貞慶上人との脈絡をたどることができるのである(1)
 伝香寺像はかつて、興福寺内の一院に安置されていた。奈良国立博物館像の伝来は未詳だが、東京国立博物館所蔵の文殊菩薩立像[出陳No.95]などとともに、建保3年(1215)に建立された興福寺四恩院十三重塔の安置像(春日四所と若宮本地仏)を先蹤とする造像とみられている。また伝香寺像に納入されていた結縁交名の冒頭部分、「信円 覚憲 信憲 貞慶 雅縁 ……」も注目をひく。ここには貞慶上人の名が、興福寺別当をつとめた4人の僧──師であり伯父の覚憲(1131〜1213)や、同門であり従兄弟の信憲(1145〜1225)、南都焼き討ち後の復興をともに推進した信円(1153〜1224)・雅縁(1138〜1223)と並んで挙げられているのである。
貞慶上人への追慕のもと、その信仰が継承される環境として、やはり興福寺の存在は大きい。いま興福寺に、上人没後においてその遺響が刻印された彫像はあるだろうか。

興福寺食堂と本尊千手観音像の再興  治承4年(1180)の南都焼き討ち後、興福寺の再興造営事業は長期にわたり続けられていった。中金堂が完成した建久5年(1194)の興福寺供養ののち、貞慶上人の関与は深まりをみせ、造営の推進力となってゆく(2)。入滅の前年、建暦2年(1212)頃には、再建なった北円堂に、仏師運慶一門による彫像群が安置された。
 しかし、建物は復興されたものの、仏像の制作は中断したまま、上人在世中にはついに再開をみなかった主要堂宇があった。丈六千手観音立像が安置されるべき食堂である。
食堂の建物は、焼き討ちの翌年には早速再建されている(3)。興福寺における毎年恒例の国家的法会たる維摩会までに、その会場となる講堂の再建を遂行することは絶望的であった。そこで、より小規模な食堂の再建を優先し、当座の会場に宛てることとなったのである。維摩会の当日10月10日、食堂は「半作」ながらも使用にたえる段階にはなっていたようだ。
翌寿永元年(1182)、若き貞慶上人は初めて維摩会の竪義をつとめたが、会場はいまだ食堂であった。その翌年に入っても、3月2日付の文書に「食堂于今不被造畢」と記されるごとく、なお完成には至っていない。この文書は造営の費用に資する段米徴収の強化に関わるもので、停滞の原因が経済的事情にあったことを示す。
そうした事態は、安置仏像の制作についても同様であったろう。食堂の本尊、丈六千手観音立像の再興は、焼き討ちの翌年、養和元年(1181)7月8日におこなわれた御衣木加持により一応スタートしてはいた。しかしこの造像開始の儀礼ののち、作業の進捗を伝える史料はない。食堂の建物は文治3年(1187)までに完工したようだが、同5年(1189)、南都に下向した九条兼実が興福寺造営の状況を検知したとき、食堂に安置されていたのは仮の本尊と思しい「十一面観音像一躯」であった。

千手観音像に墨書された貞慶上人の偈文  都合四十年弱には及ぶ停滞ののち、食堂の本尊はようやくにして成った。いま国宝館の中央に立つ木造千手観音立像(国宝、像高520.5cm)(4)がそれである。約半世紀にわたる興福寺の復興事業は、この巨像の造立をもって完結したのであった。
再開後の経緯について詳しくは知られない。ただ像内納入品の年記は、建保5年(1217)から寛喜元年(1229)にわたり、造像再開から完成までの期間がおおよそ察せられる。
ここで注目したいのは、像内の後頭部右寄りに読みとられた、次のような六行の墨書銘である(……は、調査時に判読不可能とされた部分を示す)。

自他同証无上菩提……
唯願永為観音侍者……
大悲法門度衆生……
我亦当来名観世音……
願我結定当証无上……
正等菩提能作 ……

 上記のうち2〜4行目と同様の文言は、像内の他の部位に記された墨書銘──面部中央、面部右側、左肩から脇下にかけての箇所にも見出せる。相互に対照してみれば、「唯願永為観音侍者、生生修習大悲法門、度衆生苦不異大師、我亦当来名観世音」という偈文を把握することができる(ただし末尾のみ、「名観音」「名観世音」「名観自在」と相違がある)。
この偈文は、楠淳證氏もとりあげられた貞慶上人の言葉にほかならない(5)。「春日大明神発願文」の書き出しを引こう。

釈迦大師恩徳力故、値遇一切普賢境界。
三宝力故、自他同証無上菩提。
唯願永為観音侍者、生生修習大悲法門。
度衆生苦不異大師、我亦当来名観自在沙門云々。

この偈文は、面部中央の墨書銘では「仏子聖如誓願言」として、面部右側では「仏子実真敬白」として記されている。貞慶上人の観音信仰に追随するこれらの僧は、上人の言葉をもって自らの願文としているのである。彼らの素姓は明らかにしがたいが、同一人物かと思われる所見として、桜井市笠区の木造地蔵菩薩立像(13世紀前半)(6)の結縁交名にみえる「聖如」を挙げておきたい。この結縁交名には興福寺僧の名が少なからず見出されており、貞慶上人ゆかりの地蔵信仰を背景に考えさせる。

造像と偈文の周辺──貞慶上人十三回忌  「春日大明神発願文」の撰述時期は未詳だが、かの偈文は上人の遺偈としても受けとめられていたらしい。失われた中世絵巻「解脱明恵縁起」(解脱上人明恵上人伝絵巻)(7)の一節、上人臨終を物語る部分を引こう。

夜あけて入滅期近なりて、一偈を作らる。其文云。
唯願永為 観音侍者 生々修習 大悲法門
度衆生苦 不異大師 我亦当来 名観世音
とそ聞えける。本は自宗なれは都率を願ひ、
後には補陀落山に生と祈られける。
たヽ人にはあらすとみえし。

 また、海住山寺に蔵される肖像画[出陳No.5]の賛文にも、「南無補陀落山観音聖」という書き出しのあと、この偈文が記されている(末尾は「名観自在」)。「健歴(ママ)三年〈癸酉〉二月三日」と入寂の日付が添えられることも、遺偈としての理解を示していよう。
 入滅せんとする貞慶上人が、実際に遺偈としてもこの偈文を述べたのか、あるいは没後にそう見なされるようになったのかは判断しがたい。ただ興福寺食堂千手観音像に見出される受容を考えるとき、想起したいのは元仁2年(1225)に海住山寺でおこなわれた貞慶上人十三回忌法会である。供養願文において上人の補陀落山往生が讃歎されたこの法会は、上人への追慕と観音信仰の継承を活性化せしめたに違いない。
千手観音像に納入されていた般若心経(151遍)には建保6年(1218)からの、毘沙門天印仏(809枚)には承久2年(1220)からの年記がみられ、造像はその頃から再開していた可能性はある。しかし2400枚をこえる千手観音摺仏や版本千手千眼陀羅尼(46巻)など、像の性格や納入行為に関連の深い品目での年記は安貞2年(1228)・寛喜元年(1229)に集中しており、造像の本格的進捗は貞慶上人十三回忌法会以降の数年間にあった可能性が高い(8)。制作過程から推しても、偈文の墨書はその段階でなされたものであろう。

おわりに──結縁の重層のなかで 造像が最終段階を迎えた寛喜元年(1229)の年記をもつ版本千手千眼陀羅尼のうちの一紙において、仏子信阿弥陀仏が記した願文の一節「臨終正念/□(出カ)離生死/値遇観音」も、補陀落山往生の祈願を思わせよう。しかしながら、同じ巻の別の一紙で信尊という僧が記した願意は「臨終正念往生極楽」、つまり阿弥陀浄土への往生祈願なのである。
顧みれば、この造像に際してはひろく勧進がおこなわれ、庶民にも及ぶさまざまな階層からの寄進が集積されたのであった。そのことは、千手観音摺仏のほとんどに墨書された僧俗男女の名と、「十文」「三升」といった寄進量からうかがうことができる。立場を異にする数多くの人々が結縁する造像においては、金品とともに寄せられた祈願の趣旨もまた多様となるのは道理であろう。興福寺に蔵される2428枚のうちには「国土安穏万民豊楽」「臨終正念往生極楽」などの願意が散見されるが、補陀落山往生を祈る文言はまったく見出すことができないのである。
それでは興福寺食堂千手観音像再興において、貞慶上人の遺響は像内のごく片隅に刻印されたに過ぎないのであろうか。墨書銘の5箇所に見出された偈文のうち3つは、水晶製舎利容器を擁する木製五輪塔が奉安された頭部内にある。そうした重要な部位に墨書される意義は小さくはあるまい。なお像内墨書銘は、昭和42年の国宝指定に際しての調査で読みとられた由であるが、「狭い像内で短時間に解読しているため、不明な箇所が多い」という(3)。将来の全容解明にも期待を寄せておきたいものである。


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