此上人は諸仏菩薩の講式あまた書れ、説法のことく祈たる様、
いにしへの清範・清昭もかくと、聴聞の貴賤袖をしほらすといふことなし。
建暦二年三月三日、八幡検校祐清、丈六ノ阿弥陀佛ヲ作テ光ニ千佛ヲ付テ、解脱上人ニ供養ヲサセ申ケル。イツヨリモ説法殊ニ目出度テ皆涙ヲ流ス。
これによれば、石清水八幡宮の第32代別当をつとめた祐清(1166〜1221)が千仏光背をともなう丈六阿弥陀像を造立、建暦2年(1212)の開眼供養では、貞慶上人が招かれて供養導師をつとめ、参集した人々は上人の優れた説法に感嘆したのだという。諸仏菩薩の講式おほくかヽれ、説法のすくれたるさま、昔の清範・清昭もかくやとそ人々いひける。聴聞の貴賤そてをしほらすといふ事なかりけり。建暦二年三月三日、やはたの検校祐清、丈六阿弥陀仏をつくりて、光に千仏を□けて、此解脱房に供養せさせ申けるに、いつよりも説法殊にめてたくたうとくて、人皆なみたをとヽめさりけり。(以下略)
原本の制作年代は未詳ながら、詞書筆者を冷泉為相(1263〜1328)とした古筆了任(1610〜73)の極めがあることでもあり、14世紀までさかのぼる可能性は考慮されてよいだろう(5)。また詞書のなかで、貞慶上人・明恵上人の入寂日を除いてはこの一節だけが、具体的な年月日をもって示されているのである。しかるべき史実あってこその記述に違いあるまい。
祐清が造立した丈六阿弥陀像については、石清水八幡宮側の諸史料により、男山山上の社殿近くにあった西谷八角堂の本尊として存在が確認されている。「海住山寺縁起」には「光ニ千佛ヲ付テ」とあるが、15世紀の社僧が記した『報恩寺前空円法印放記』に「一 西谷八角堂 本尊一光千佛 祐清建立」とみえ、千仏光背をともなっていたことも確かめられる。
貞慶上人研究において、石清水八幡宮との関わりはほとんどいわれてこなかった。しかしここで注目したいのが、金沢文庫本『讃仏乗抄』(6)に収録される一篇「弥陀法花」である。年代を含めて具体的な状況をつかみがたいが、表題には「於八幡宮/或上人」と注されており、石清水八幡宮において読み上げられた、阿弥陀像の造立と法華経書写の功徳を讃歎する表白と知られる。最近の研究で、『讃仏乗抄』に収録される書目はすべて貞慶上人の撰述にかかることが指摘されているのである(7)。
貞慶上人と石清水との接点を示すこの一篇は、「解脱明恵縁起」「海住山寺縁起」に見出された事蹟の史実性を傍証しよう。これを性急に祐清が造立した丈六阿弥陀像に関係づけるのはためらわれるのだが、末尾近くにある「時に造るところの形像、忽ち八万四千の光明を放ち、写すところの妙典の文字、早く六万九千の化仏をなす」という一節は、千仏光背を背負う丈六阿弥陀像にこそ似つかわしく映らないだろうか。建暦2年(1212)開眼供養時の「説法」をしのぶ一助とはなりそうに思われるのである。
なお海住山寺に伝わる「宝珠台」(南北朝時代)の表面には、石清水八幡宮の社頭図が描かれている。制作の前提状況について、叡尊(1201〜90)が八幡宮で宝珠法をおこなったことが挙げられているが、貞慶上人と石清水との脈絡に関しても暗示的に思える。
貞慶上人最晩年の一事蹟は、幻の中世絵巻「解脱明恵縁起」を経て、近世にはわずかに海住山寺においてのみ記憶されていたのかもしれない。しかし祐清造立の阿弥陀像は、その後を通じて格別な由緒や霊験が喧伝されたわけでも、参詣者の信仰をことさらに集めたわけでもなかった。近世の海住山寺の側で、像が現存することまでは認識されていただろうか。四百五十年遠忌の記念事業であった《海住山寺縁起絵巻》の制作では、かのエピソードは詞書に盛り込まれることがなかったのである。
男山山上を追われた丈六阿弥陀像は、堂宇ごと山下に移され、正法寺(浄土宗)の境外仏堂「八角院」の本尊となっていたが、1993年、京都国立博物館平常展示館における特別陳列「石清水八幡宮と神仏分離」を機に寄託され、明るい照明のもとにその全容をあらわした。最近、正法寺境内に文化財収蔵施設「法雲殿」が完成、八幡の地に還った阿弥陀像は、その本尊として安住の場を得た。金色の輝きも千仏光背も失われているが、丈六の偉容には圧倒されるばかりである。かつて男山山上に展開された神仏習合の盛観を髣髴とさせるこの巨像は、貞慶上人最晩年の晴れ舞台を偲ぶよすがとしても仰ぐことができよう。
[付記2]
正法寺は通常非公開であるが、公開日には丈六阿弥陀像を安置する法雲殿も拝観できる。日程等については八幡市観光協会のホームページを参照されたい(2012年の公開日は下記に案内がある)。
http://www.kankou-yawata.org/article.php?story=20120218163036882
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