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貞慶上人と石清水八幡宮の丈六阿弥陀像 | 細川涼一

海住山寺縁起の一節から  貞慶上人八百年遠忌の年となる本年(2012年)、法要や展覧会などさまざまな記念事業がおこなわれるが、過去の遠忌の折にもそうしたいとなみがなされている。
たとえば狩野永納(1631〜97)が彩管をふるった《海住山寺縁起絵巻》(海住山寺蔵)(1)は、寛文2年(1662)の四百五十年遠忌に際し、興福寺大乗院門跡真敬法親王(1647〜1706)に依頼して制作がなされたものであった。
また『海阜遺編』(海住山寺蔵)(2)は、18世紀初頭、五百年遠忌を機に編まれた史料集成である。収録される史料のひとつ「海住山寺縁起」には「此ノ縁起ハ稿本ノ写シナリ、正本別ニアリ、真敬親王ノ手沢ナリ」と注されており、《海住山寺縁起絵巻》の制作において一材料とされたことが知られる。
《海住山寺縁起絵巻》の下巻第一段には、講式作家としての上人の名声を述べた次のような一節がある。

此上人は諸仏菩薩の講式あまた書れ、説法のことく祈たる様、
いにしへの清範・清昭もかくと、聴聞の貴賤袖をしほらすといふことなし。

ここで貞慶上人は、説経の名手とされた清範(962〜999)や静照(?〜1003)と並び称されているのだが、「海住山寺縁起」ではこれとほぼ同じ一文のあとに続いて、名声を伝える具体的エピソードが綴られているのである。

建暦二年三月三日、八幡検校祐清、丈六ノ阿弥陀佛ヲ作テ光ニ千佛ヲ付テ、解脱上人ニ供養ヲサセ申ケル。イツヨリモ説法殊ニ目出度テ皆涙ヲ流ス。

 これによれば、石清水八幡宮の第32代別当をつとめた祐清(1166〜1221)が千仏光背をともなう丈六阿弥陀像を造立、建暦2年(1212)の開眼供養では、貞慶上人が招かれて供養導師をつとめ、参集した人々は上人の優れた説法に感嘆したのだという。
この事蹟は、従来の貞慶上人研究において全くといってよいほど取り上げられたことがなかった(3)。海住山寺で入寂するすぐ前年にあたるのだが、前月には九条道家邸や八条院に赴いたことが知られ、その点では異とするには及ぶまい。「海住山寺縁起」が記すエピソードは史実を伝えるものであろうか。

貞慶上人と石清水八幡宮祐清 このエピソードは、絵巻「解脱明恵縁起」(解脱上人・明恵上人伝絵巻)の詞書にもほぼ同じ文章で見出せる。残念ながら原本の現存は知られていないが、幸いにも狩野探幽(1602〜74)による臨模が、いわゆる探幽縮図のうちに存する(4)。該当部分を引こう。

諸仏菩薩の講式おほくかヽれ、説法のすくれたるさま、昔の清範・清昭もかくやとそ人々いひける。聴聞の貴賤そてをしほらすといふ事なかりけり。建暦二年三月三日、やはたの検校祐清、丈六阿弥陀仏をつくりて、光に千仏を□けて、此解脱房に供養せさせ申けるに、いつよりも説法殊にめてたくたうとくて、人皆なみたをとヽめさりけり。(以下略)

原本の制作年代は未詳ながら、詞書筆者を冷泉為相(1263〜1328)とした古筆了任(1610〜73)の極めがあることでもあり、14世紀までさかのぼる可能性は考慮されてよいだろう(5)。また詞書のなかで、貞慶上人・明恵上人の入寂日を除いてはこの一節だけが、具体的な年月日をもって示されているのである。しかるべき史実あってこその記述に違いあるまい。

 祐清が造立した丈六阿弥陀像については、石清水八幡宮側の諸史料により、男山山上の社殿近くにあった西谷八角堂の本尊として存在が確認されている。「海住山寺縁起」には「光ニ千佛ヲ付テ」とあるが、15世紀の社僧が記した『報恩寺前空円法印放記』に「一 西谷八角堂 本尊一光千佛 祐清建立」とみえ、千仏光背をともなっていたことも確かめられる。

 貞慶上人研究において、石清水八幡宮との関わりはほとんどいわれてこなかった。しかしここで注目したいのが、金沢文庫本『讃仏乗抄』(6)に収録される一篇「弥陀法花」である。年代を含めて具体的な状況をつかみがたいが、表題には「於八幡宮/或上人」と注されており、石清水八幡宮において読み上げられた、阿弥陀像の造立と法華経書写の功徳を讃歎する表白と知られる。最近の研究で、『讃仏乗抄』に収録される書目はすべて貞慶上人の撰述にかかることが指摘されているのである(7)
貞慶上人と石清水との接点を示すこの一篇は、「解脱明恵縁起」「海住山寺縁起」に見出された事蹟の史実性を傍証しよう。これを性急に祐清が造立した丈六阿弥陀像に関係づけるのはためらわれるのだが、末尾近くにある「時に造るところの形像、忽ち八万四千の光明を放ち、写すところの妙典の文字、早く六万九千の化仏をなす」という一節は、千仏光背を背負う丈六阿弥陀像にこそ似つかわしく映らないだろうか。建暦2年(1212)開眼供養時の「説法」をしのぶ一助とはなりそうに思われるのである。

 さらに祐清自身が、貞慶上人没後の海住山寺との接点を明記している文書が現存する。承久2年(1220)12月10日付の譲状(8)それである。摂津国木代庄の「宮原田参町」のうち一町を、くだんの阿弥陀像を安置する「丈六堂」の「寺用料」に宛て、一町は「海住山(寺)本堂に寄進せしむ料」としているのである。建暦2年(1212)のエピソードを史実とみてこそ、貞慶上人への報謝の意図を含む寄進行為として了解されるのではないか。

 なお海住山寺に伝わる「宝珠台」(南北朝時代)の表面には、石清水八幡宮の社頭図が描かれている。制作の前提状況について、叡尊(1201〜90)が八幡宮で宝珠法をおこなったことが挙げられているが、貞慶上人と石清水との脈絡に関しても暗示的に思える。


丈六阿弥陀像のその後──正法寺(八幡市)阿弥陀如来坐像  祐清が造立した阿弥陀像のその後について記しておこう。これを本尊として安置する「丈六堂」=「西谷八角堂」はその後、祐清を第二代とする善法寺家の私的仏堂として継承され存続してゆく。
しかし貞慶上人の一事蹟が、石清水において語り伝えられることはなくなっていったものらしい。堂の建立年についても、『石清水八幡宮末社記』などは「建保年中(1213〜1219)」と記す。建暦2年(1212)の開眼供養のあとに八角堂が造営されたとみるのでもない限り、造立年代の記憶が次第に曖昧になっていったことの反映と解すべきではなかろうか。
その後、安永9年(1780)刊の『都名所図会』の挿絵には八角の屋根がみえ、男山山上における存続がうかがえる。しかし「ことのほか大破に及びて半ば顛倒」(『男山考古録』)する惨状にも至った堂宇のなかで、丈六阿弥陀像は伝世していたのであった。そして明治維新を迎え、境内各所の仏像と仏教建築は、神仏分離により一掃されてしまったのである(9)

 貞慶上人最晩年の一事蹟は、幻の中世絵巻「解脱明恵縁起」を経て、近世にはわずかに海住山寺においてのみ記憶されていたのかもしれない。しかし祐清造立の阿弥陀像は、その後を通じて格別な由緒や霊験が喧伝されたわけでも、参詣者の信仰をことさらに集めたわけでもなかった。近世の海住山寺の側で、像が現存することまでは認識されていただろうか。四百五十年遠忌の記念事業であった《海住山寺縁起絵巻》の制作では、かのエピソードは詞書に盛り込まれることがなかったのである。

 男山山上を追われた丈六阿弥陀像は、堂宇ごと山下に移され、正法寺(浄土宗)の境外仏堂「八角院」の本尊となっていたが、1993年、京都国立博物館平常展示館における特別陳列「石清水八幡宮と神仏分離」を機に寄託され、明るい照明のもとにその全容をあらわした。
 木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財、像高283.0cm)。展示公開を機に、その優れた造形性も再評価されるに至り、現在では仏師快慶(?〜1227)の作風を示す像としての理解がほぼ定着をみている(10)快慶といえば、貞慶上人との関わりも少なくない(11)。ここでは詳述を控えるが、貞慶上人と祐清との間をとりもったのは快慶であった可能性が高いと筆者は考えている。

最近、正法寺境内に文化財収蔵施設「法雲殿」が完成、八幡の地に還った阿弥陀像は、その本尊として安住の場を得た。金色の輝きも千仏光背も失われているが、丈六の偉容には圧倒されるばかりである。かつて男山山上に展開された神仏習合の盛観を髣髴とさせるこの巨像は、貞慶上人最晩年の晴れ舞台を偲ぶよすがとしても仰ぐことができよう。


[付記1]
本稿は、拙稿「石清水八幡宮祐清造立の阿弥陀像と解脱房貞慶─八幡市正法寺(八角院)阿弥陀如来坐像に関する一史料をめぐって─」(『文化史学』第65号、2009年11月)の内容の一部を再構成し、若干の補足を加えたものである。なお史料の引用では、漢文は適宜読み下し、表記には一部調整を加えたことをお断りしておく。

[付記2]
正法寺は通常非公開であるが、公開日には丈六阿弥陀像を安置する法雲殿も拝観できる。日程等については八幡市観光協会のホームページを参照されたい(2012年の公開日は下記に案内がある)。
http://www.kankou-yawata.org/article.php?story=20120218163036882



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