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大僧正隆範師略伝

第一 行實梗概 師諱隆範字宗順黙堂と号す。京都府下、山城の国相楽郡加茂村銭司の人なり。
俗姓は杉山氏、父は弥三郎と称し母は住岡氏、嘉永二年己酉八月二十八日を以って生る。
幼にして聡明英果、夙に真乗を慕い出塵の志あり。安政六年甫めて十一、郡の瓶原村海住山寺に投じ、剃染して寺主範英和上の室に入る。智解伶俐、一を聞いて二を知る。三蔵経論悉く暗誦す。人々驚異せざるなし。
後幸心方四度別行を精勤し勇猛不退なり。文久二年正月智山に登り化主頼如僧正に謁し交衆す。同年十一月二十七日本山に於て自證説法の算題を以て新加役を勤修し、問者と為る。又密灌を本山の学徳賢如闍梨に承け、事教を研覈して海衆の依怙と為る。元治甲子大乗院門跡の令旨を蒙り僅に十七歳海住山寺の師跡を董し、大に法幢を樹て教風を宣揚す。慶應三年五月憲深方一流を義範師より皆伝す。明治七年時勢に感ずる所ありて東京同人社に入り中村敬宇先生の教授を受け、明治九年再び海峰に帰住す。十九年十二月十七日武州高尾山薬王院に転住す。本堂崩壊の後を受け百方苦辛再建の資を造る。二十八年十一月十三日病に依りて任を辞す。三十年九月八日法眷信徒の懇請に依り大師河原平間寺佐伯隆基師の跡を襲く。三十二年十月一日旧病療養の為め職を辞し海住山に静養す。沈綿累歳竟に起たず。惜しむべきかな師人と為り氣胆俊邁しにして機鋒犀利変に応じ能く断じ敢えて爲に勇なり。其大功を立つるに當り、名を邀へず功に誇らず務めて美を長上に同僚に帰し、己れ恒に其労に居る故に常に長上及び同僚の倚重する所と為りて偉勲成る。三十余年化主遷代一として参画せざること無し。亦以って一山隆替の由る所を窺うに足る。平生是を是とし非を非とするの間、尤も激切に之を言いあんあいひ(あんあいひ) 合うことを人に取るを肯んせす。而も其後進を愛撫するは則ち藹然として恩意あり。故に一山長少疏昵を合わせ頌服せざる莫し。蓋し其義の毅然たる、其仁の愛然たる、酬酢萬変一誠天人に孚し、以て成るを底たす。嗚呼師か天賦丹衰の忠実護法扶宗の丹衷発して本山の回復と為り、新義の再興と為り、海住山の復興、高尾山の営建と為り、功績宗内派内に遍く。勲業法務事務に亘り育英愛材の徳、挫奸伸枉の義、一生の懿行(いこう)芳躅枚挙に遑あらず。遺弟信徒は言うに俟たす法子法孫悠久に伝え忘れざらんことを希ふと云爾。