関連ページ

サイト内検索

大僧正隆範師略伝

第二 法務上実歴 明治中興の初、政府の方針未だ一定に至らず。神官儒生交々相皷吹し、廃仏毀釈の説頗る勢力を得、寺院僧侶狼狽して爲す所を知らず。此時に当り隆範師独り毅然として大難の衝に当り、本山の瓦解を柱し、新義の湮滅を復興す。其間鞠躬尽瘁の跡、其職務命免の実に就いて之を考ふれば、後の人企仰の念油然として生するものあらん。
今其の大要を挙ぐれば、明治六年五月權少教正加藤体應の名を以って、山城国宗内教導周旋方を命ぜられ、同年九月廿八日大教正降魔研暢の名を以って同国郡村寺院巡視を命ぜられ、同十年五月廿五日智山役局の名を以って大学林設置の件に付出張所役員と有志輩との協議の為め東上を命ぜられ、其十月三十日に於て權中教正佐々木義範の名を以って本山執事を命ぜらる。智山の安危盛衰繋りて師の双肩に在ること実に此執事任命の一時に因りても知らるるなり。十一月廿七日には更に真言宗中教院の名を以って城州相楽郡本宗教義取締を命ぜられ、十一年三月十二日に至り、智山化主佐々木義範五山総代金剛宥性連署を以って分離事務担当副を命ぜらる。六月五日、西部管長冷泉照道の名を以って西部大教院事務担当を命ぜられ、九月七日西部東京出張所詰めを命ぜられる。十三年十月智山護法会の名を以って其幹事を依嘱せられ、十六年七月管長三條西乗禅の名を以って東寺大勧進委員を命ぜられ、九月廿一日に至り神奈川県宗内副管理を命ぜらる。十七年三月五日、宗祖遠忌事務局詰を命ぜられ、其十七日に御遠忌威儀師を命ぜらる。廿三日化主實因の名を以って智山御遠忌曼供會奉行を命ぜらる。五月廿日十善会上首二品朝彦親王の名を以って十善会員に列せらる。十九年一月十六日両化主連署、本派大学林創立勧募委員を命ぜられ、六月十一日、長者栄厳の名を以って、神奈川県第五号管理を命ぜられ、七月六日、同県第三号支所管理を命ぜられ、廿三年五月一日根嶺坐主秀盛の名を以って法会掛長を命ぜらる。六月廿五日護法会より其取締を委嘱せらる。廿五年二月十二日座主宥性の名を以って根嶺御忌寿量品會講師並びに三問一講講師を命ぜらる。五月九日両化主より伝法会精義に、十二月廿二日本派評議員に列せらる。廿六年三月一日化主隆基の名を以って集議席に任し、菩提院結衆に補し、六月廿一日智山改革副総理に任ず。師が平間寺隆基師を化主に推撰し、己れ副総理の地に在りて本山恢復の全権に一身を犠牲とせられたる苦衷の跡は俯仰感歎に禁へさるものあり。五月三十一日には長者玉諦の名を以って東京府第五号學頭を命ぜられ、廿八年一月廿二日、化主隆基の名を以って遷都祭並両大会顧問に任ぜらる。四月十五日勧學会より副会長に推され、十一月廿六日東京府五号學頭の任を解かれ、三十一年一月十七日長者快運の名を以って忠霊堂創立委員を命ぜられ、十二月一日に至り。新義派大学林評議員を命ぜらる。
以上法務の実歴を考えれば、師が心身を捧げて護法扶宗の大任に服せし事、身は常に長上を推戴せるも、其の実力は優に管長化主の上に在りし事を窺うに足り、亦誠の感ずる所、膽勇の服する所、其勢当る可からざるものあり。洵に本派復興ノ法将なる哉。 教職補任の若きは固より師の軽重を為すに足らずといえども、其の優遇昇補の跡は、師を敬慕するものの知らんと欲する所此に之を叙列して以て参考に供す。
明治五年十月七日始めて教導職試補と為り、十年四月廿四日權中講義に補し、十六年十月五日中講義に補し、十九年四月廿八日、權大僧都に補し、二十年十二月十七日大僧都に補し二十三年一月十五日、權少僧正に補し、二十五年一月十五日少僧正に補し、三十年六月三十日、權中僧正に補し三十二年一月二十五日中僧正に補し、三十三年十月二十二日權大僧正に補し、三十八年六月十一日滅に臨み化主瑜伽僧正親ら臨みて大僧正に昇補す。