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大僧正隆範師略伝

第三 教育賑恤及義挙 師か護法扶宗の精神より、其の事の必ず人材に待つことあるを以って、夙に育英養才の志に切に、弱年よりして徒弟を養い、又在家子弟の才學ある者を択び、資を給して學ばしむるもの少なからず。又他人の弟子と雖も随身より取りて之を教育し、或は自ら度して加行と為し他に譲ることあり今に於て徒弟の外、法官学士教職と為りて社会の務に服するものあり。其の初め資を給するの日、往々其の衣食を節して以って之に充てるに至る。師の遷化に當り、緇素と無く惜せさるものなきは良に以あるなり。
瓶原山間に僻在し教育振るはず師之を患い、衣食の資を割き越前鯖江藩の儒者堀尾謙堂を聘し、地方子弟を教化せしめ、又国分寺内地を貸与し小学を創建し、名づけて恭仁校と曰ふ。是より先京都府知事慎村正直頗る心を学事に傾け所在に教校を興し遠邇翕然として直に嚮ふ。独り丹波山邑及び瓶原の振るはざるを歎せり。師之を聞いて慨然村民を会し、大いに改革を議し自ら京都府に至り更に尾山水哉を請い、堀尾氏に代わらしめ、専ら時勢に応ずるの方向を以って開誘する所あらしめ、学芸日月上進す。其の後又中島精秀を得、厥後奥本某を得駸々の勢いあり。京都府下郷學其優等を推すに至る。師か博愛慈善は又天性に出づるものあり。往々衣鉢の資を投じて以って之に供す、学校に養育院に、道路橋梁に、或は海嘯風災に罹る者等、助賑恤一にして足らず。或は西南の役 征清の役等に軍資を献する等、随って賞状賜品亦枚挙に遑あらず。瑣事と謂うと雖も、亦遺徳の一斑なり、其の件数を左に開列す。
明治四年京都府四條橋梁架設に際し物を献し賞状を賜う、曰く十年西南役負傷者に物を贈りたるを以って征討本部より賞状、曰く二十一年十一月二十六日東京養育院に施与せる所あり。府知事より賞杯、曰く二十四年二月二十七日武州南多摩郡新道開鑿に際し五百金を献せし賞として賞勲局総裁より銀杯一個、曰く二十五年三月十日埼玉県非常水災に賑恤せし賞として県知事より木杯一個、曰く二十七年四月二十八日八王子失火に際し、災民に救恤せし其賞として府知事より木杯一個、曰く三十年六月一日二十七八年戦役に軍資を献納せし其賞として同じく木杯一個、曰く三十一年三月二十八日再び養育院へ寄付せし賞として同じく一個、曰く同年十二月十日東京盲唖学校維持資金を寄附せし賞として神奈川県知事より同じく一個、是其大概なり。此の他法務事務勤労に依りての賞状感状賜品等積んで山を為すも今は之を省くと云う。
瓶原四至秣山の其村有たるは確として動かす可からざる證徴あり。而も其證徴たる井水證文は実に海住山中興二世慈心上人に原づくものにして此の文に拠れば秣山の村有たるに於て糸毫の疑う容れるべきに非ず。然るに隣村に野心を蓄える者あり。一種の地図を根拠とし捏造附会遂に府庁に上申し一旦下付ありし地券を没せしめんとするに至る。一村の存亡に係る焉師の義勇慈仁の性、殊に自己住持の寺に於て確証を有し其原は中興上人に出でたるに於て、傍観黙止を許す可きに非らず。遂に法務宗用に鞅掌する。身を以って、亦一邑の安危に任することとなり、一度は十四年六月を以って京都始審裁判に敗れたるも十七年六月に至り大阪上等裁判に十分の勝を制し、越えて十八年十二月前後五閲年を経て大審院の裁判に最後の勝利を得。方外の身、東奔西走寝食を安んせず、苦慮焦心の結果、奸邪を挫き、正理を伸へ、一郷同胞を将滅に救いたるは、洵に郷黨子孫の肝に銘じ骨に刻み威徳を不朽に仰ぐ所ならん。