関連ページ

サイト内検索

大僧正隆範師略伝

嗚呼佐伯大僧正猊下の遷化に就いて:香隆小史拝稿 本派独立の元勲として、離加末執行の率先者として本山の為に身命を犠牲として、終始一貫護法の聞え高き佐伯隆範大僧正は、久しく四大不調のため須磨に静養し、遂に初住の霊地海住山を以って終焉の所と定め、自ら仝山に籠居せられしは、去る三十四年の事なりしが、其の後病勢漸く怠り、身体大いに快方に赴かれしが、本年一月風疾を感じ、為に全身に衰弱に陥り、遂に六月十一日午前五時卅分を以って、海峰に圓寂せられたるは、一派の為、否本山のため長大痛惜すべき悲報なり。 其臨終の殊勝なる、死に先立つ前夜、即ち六月十日の夜、平間寺佐伯隆運僧正、成田山石川照勤僧正、海住山武藤範秀氏を病床に招き、懇々教誡をなし、新義正風の声明を指南し、秘曲を三師に口授せられ熟睡せしと見て、翌朝苦悩なくして遷化せられたるなり。初石川、佐伯僧正は梅雨前に見舞として西下、海住山に到着は去る六月七日なりき、病状異変なきにより十日を以って東帰せんとせしを、大僧正は之を止め、明日大坂の医学士某来診すれば、之を待て而して後に病容を察し、訣別せよと袖を取って放たず留められしが、遂に之が今世永訣の前兆となれりとぞ。 謹みて案ずるに僧正諱は隆範、初範真と称す。嘉永二年己酉八月廿八日を以って、山城国相楽郡銭司の杉山氏に誕る、父は弥三郎母住岡氏、師は其長男なり、童真の日超抜挺秀の名高く、早く佛乗を志求す。安政六年海住山範英上人を拝して剃染し梵篋を学ぶ、時に十一歳なり、文久二年正月智山に掛錫し、化主頼如僧正に謁し交衆す、是歳十一月本山に於て、自証説法の論皷を打って新加す。海住山に四度を師主に皆伝し成満するや、密潅を本山の賢如闍梨に受く、慶応の末憲深方一流を義範師に相承し、益書教の蘊奥を探求す。初師十六才の時、南都大乗院宮の特旨を以って海住山を董す。時人至栄とせり。同山法堂大破に瀕す。師経営百方本堂を再建し、五重塔、文殊堂、奥の院以下悉く皆改築又修理を加え壮麗旧観に倍す。 維新の初師時勢を感じ、東京同仁社に洋学を修む。時に随心院準三宮増護大僧正、老病に臨み寺を師に譲るの志あり。遺言して後事を宝篋院に託す。宝篋院は海住山の別号なり。師凶電に接して帰西するや、随山他人の横領する所となる。然れども師智属の衰退を挽回するの熱情に駆られ、随属に永住するの志なし、言の遺旨を捨てて本覚寺某の奸計を構成したるは終世の憾ならん、然れども師之が導火線となり、智山派独立の歩武を高むるに至りしは一派の幸福とやいわん。此時本覚寺の妄計なく、宮の遺旨の如く若し随山に住せしならば、師一味論者の頂点として、智山派に全力を注ぐの余地なかるべし。故に随山の不幸は智山の幸たる所以なり。 之より師進んで東京に至り、首として関東の肉山成田山、大師河原に遊説し、学籍の智山に加末せしむ。此の苦心画策皆秘密にして師の胸中に出る者なり。次いで高尾山に住し、又之を離末し、三寺盟合し三山と号す。其後関東十一談林以下数百ヶ寺の離加末は智山独立の端緒を開きたる皆師の力なり。明治十八年東京に第二大成会議の開くや、師新古分離を主唱すれど、一味党の勢力盛んにして否決の不幸となる、師又派号公称を提出し、日夜千辛万苦を嘗め、遂に目的を達することを得たり。是れ師が一代の洪業として、派号公称史別冊に存す。又本山化主の選定は、維新の初一山紛議数年無住となり教柄地に落ちんとせしを憂い、佐洲蓮華峰寺の弘現師を推撰せし以来、皆師顕要に居り之を定む、廿六年金剛宥性大僧正の辞するや、平間寺隆基和上を懇請し、本山の諸堂を修理す。尋ねて醍醐山より一千余ヶ寺の離加末件に於ける、師其衝に当り英断功績を奏す、三十年九月八日、隆基・隆健二師の悃請に依り平間寺席を董す。初三池僧正病躯を以って成田山を師に譲らんとす。師前に平間寺就職の定約あり、隆基化主の姓佐伯氏を冐し、又今名に改める。故を以って更に石川照勤君を抜推し成田山を継がしむ。照鳳僧正終りに臨み、石川に遺言して、吾死の後隆範師を以って師とせよ。事大小となく諮問すべしと。之に依りて石川師の挙止、皆師を模型とせられしという。離加末事件の為、京都に往復すること十二回、廿八年秋遂に病に罹り高尾山を辞し須磨に治療す。平間寺に住するや劇務甚だしく、又現管長瑜伽大僧正を化主職に奉戴せんとして、師の苦心せられたると、当時の事情に審なり、化主の新任するや、平間寺に臨し師の厚徳を謝せん為、及賢師をして寿命経一千巻読誦し、以って恵命の安全を祈らせたまうとかや。卅二年平間寺を退穏し、隆運闍梨を欧州より召還し、寺門の恢興を活動せしむ。卅三年八月智山派独立別置管長の時機を得たり。師手舞足踏病を忘るるの感あり、十二月化主殊勲の顕著なるを表旌して、権大僧正に補す。師固辞して拝せず。化主慰諭再三。 即ち海山入り余命を閑地に養う、なれども本山の機密、一派の重件、必ず師の苦慮を煩わすことを以って、一派の重鎮として長寿を祈らざるはなし。師嘗て曰く余数十年苦心経営せし、智山派も独立し、石川、佐伯、志賀、三人は皆余意を紹きて寺門を興隆し、一派の耳目たり、余の希望は円満の域に達せり、亦遺憾なし、只本春は平間寺に前代未曾有の伝法潅頂、神道潅頂等あれば、彼恙(つつが)無く成満を見て入滅せば、能事畢れりと、若し潅頂未了ならば余は決して入滅せずと断言せられけるとかや。アゝ護法の至誠鬼神を泣かしむるの感あり。宜なり智山派の牛耳をとり、枢要を久しく双肩に荷負せられしを、師の病危篤なるや化主猊下には電報を以って大僧正に昇補し、純忠を表彰し、又遷化の悲報を聞くや草鞋登山諷経の特典あり。十四日の送葬の日や車軸を流す大雨を厭わず、化主の御引導あり。遠近の僧俗数百人悲泣して会葬せり。師の報齢五十七、遺命を以って京都大谷に荼毘し、分骨を海山、平間、高尾及び高野山に塔すという。師平生興隆の志篤く、海峰高尾、大師其所住の処皆荘厳美を極む、又育英を好む徒弟数十人の外、俗子に学費を給与し、又群秀の者に入学させ、俊才を招き相応の地位を与う。美談筆紙に尽すべからず。一代の褒状賞品別に一冊あり。而して仏像仏画の奇宝数千点、皆所住の寺に寄附し、或は四方に記念品として予め生存中に分贈し、諄諄たる遺言書を封し之を平間寺僧正に附与せられたるが如きは、誠に非凡の処置と云わざるべからず。今茲に功徳の一斑を叙して、末徒の亀鑑に供すと云う。
法の道これあらばひらくべし  なき今日よりは誰と頼まん