大僧正隆範師略伝
派号公称始末日記奥書
範真曰く、各宗合併大教院分離後は野智豊を本宗総本山とし、三山交番管長となり全国新古両派の末徒を統轄し京都仁和大覚醍醐東寺の諸山と雖も皆悉く管長の所轄たり。明治八九年以来一宗稍々多事、東寺の如きは古義に加入し総本山となり交番管長の列に加わり、尋て明治十一年他の諸山も管長の所轄を解き、更に西部と称し別置管長の認可を受け、爰に於て新古合併の大教院は分離し、一宗三管長となれり。(新義・古義・西部)全国末徒の所轄上に彼此相争い一大葛藤を惹き起すに至れり。官其処分良法無きより且允可せし三部を廃し、一管長を奉すべき訓令を発せり。是れ実に明治十二年六月二十九日なり。因之京都智山を会場とし各山大会議を開き、粗々将来の宗是を議決し同年十一月一宗本末大会議を東京に開設す。当時主任者の一二の輩擅まに各山が議了せし大綱を翻然変更し、無稽にも数百年来の派号及び因襲せし慣例を廃し一宗(新義・古義)混淆一味の宗制を立てて、本末会議に完結せしめたり。(当時各諸山の無気力無精神切歯に堪えず)夫れ派号公称の如きは人為の臆度に非ず。派祖開山大師が本経に含有せる教理を発見し、新たに加持門の法幢を根嶺に闡揚し給ひしより已来既に七百年余歳、其寺門の制規や慣例や一朝一夕の能く沿革し得可からざる者なるを、強いて此宗制を実行せんとし壓制と権力との手段を専擅し、各山及び末徒を束縛したり。従来我新義本山の如きは数千の末徒を統括し別派独立せし者なり。然るに是大権は悉く法務所に帰し、為に両山非常の衰頽を来たせり。尤も甚だしき影響を感じたるは吾智積一山のみ故に、智山は之が恢復をなさんと常に勃々として止まされども、本山要路の人及資力に乏しく遂に六ヶ年の月日を経過せり。又諸山に於ても十二年の宗制は不完全の者なり。今にして此制度を改正せざれば諸山は悉く滅亡せんと覚知し、彼此併合して之を破らんとす時に高祖大師のご遠諱に際会し、愈一宗大会議を開くことになれり。吾徒は斯かる澆季に本山の危機を傍観するに忍びず、荏苒放任せば根嶺の教風は将に地に墜ちなんとす。是に於て余輩不肖と雖、唾手一番有志輩と団結し分離説を主唱せり。法務所并他党は一宗一味を主張し甲乙二派互角の論勢激烈囂然として止まず。為めに中止解散となれり。其年九月太政官第十九號の達を以って教導職を廃止し宗権は一宗管長の手に委任せられたり。是れ実に明治五年教部省設置以来の変革なりとす。此官令の本旨たる政府の真意は、各宗分派共自今は不羈独立の精神を以って自計すべし。政府敢えて干渉すべき者に非ずと放任せられたる者の如し。是なん宗教家の最も貴重し感戴すべき一令たり。斯かる好時機こそ各山各立の時なれば、各山よりは宗制編纂委員を出京せしめ法務所に迫り、或は官に訴え各自本山の権利を伸張せんとす。法務所なる者は隠然一味党を抱き入れ百方奸譎其針路を妨害するのみならず、比時を以って愈各山名称をも廃滅せんと企てたり。吾智山の如き他山の独立は不利なれども各山と併合の方針を取り一致して法務所に迫れり。尤も智山は一山独立して新義派を恢興し布教興学自由の運動を為さんと数年来の宿志なれども、近来本山衰微し萎靡して振るはず。依りて十八年春東京に有志会を開き、又本山よりは化主代理東上あり。将来の山是を懇議すれども当時誰ありて率先して資金を抛て比重難事を負担する者なかりしに、幸に本山并に諸有志より独立総裁理事を新勝寺三池照鳳平間寺佐伯隆基・深瀬隆健等の諸氏に懇嘱するに、諸氏之を含容し幾年経過するとも此事の徹底する迄の資金は負担すべしと応諾せられたり。是に於て吾本末の勢力旧に倍し、末徒総代には百済範真・成田照玄、瀧實昇を補員として決然新義派公称一山独立の計画を為し、爾来理事各位と百計千慮、苦して各山に法務所に官省に申請し、遂に大会議を開設し連日堂々侃々正義を拡張し、結局本派公称して派規編纂の宗是を完結せしめたり。尋で輦下に派内の大学林を創立し事務所を置き今日の盛運を来たしたる上は、開祖の擁護に依ると雖も理事各位の勲労重且つ大と謂うべし。末資たる者豈に之を欽仰せざる可けんや。
明治十九年春二月 東武範真謹誌