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大僧正隆範師略伝

第五 護法扶宗本務 其一 化主推撰 慶応三年七月近世教学の泰斗と称する化主龍謙僧正遷化せられしより、山内の軋轢数年に亘り、延べて明治維新に及び一山瓦解、大衆雲散人法日々に傾頽し、法灯の滅する旦夕に在らんとす。加うるに勧学院は火災に羅り殆ど気息無し。是時に当り、師一身を挺んで百難に当り、毅然として法脈を護持し、宗派を扶植し、本山の恢復に任せんとし、心志を苦しめ、肝脳を砕き、夜白奔走、遂に佐渡小比叡山より、義観弘現二師を推撰するに至れり。本山の旧例として化主は必ず真圓両寺を歴て晋山することとなりしを、危急存亡の秋、古例を株守すべきに非ざるを以って、師は英断を以って違例の選出を為せし。その機略敏活にして密、人得て支吾する能はず。護法の赤誠に非ずんば安そ能く此れに至らん。尋て又義範師を挙げて弘現師の後董と為せり。義観師は性相碩徳一世を風靡し義範師処世大才、東校を開設し、大いに英才を育成し一宗管長の大権を握り、新古を併せ勢各山を壓す。智山法幢大いにる、皆師の暗賛冥輔に非ざるなし。而して明治十一年両化主相尋て遷化せられしを以って、師は更に松平実因和上を挙げて化主と為し、自ら執事を帯びて之を輔けり。実因和上の掩化に及び更に宥性和上を挙げ、又隆基和上を懇請し、尋て芳勝師を推せしも不幸早世せしを以って、之を承るに快運師を以ってし、其の後教如闍梨を屈請するが為に照林僧正を使とし、三山及び末派を代表し、山の為法の為懇々勧進せしより、教如師も亦其徳と栄とに感激し遂に晋山せられたり。見るべし本山維新以来三十余年間累代の化主、概ね師の推撰に由らざる無く、隠然として一山の枢軸と為り、安危存亡を双肩に任せる者は、実に師一人なりしを。然れども常に謙退を旨とし先輩宿老を推戴し其労に服して其功に居らす。師が眇躯を以って能く希世の勲業を成就せるものは実に之に職由す。 其二 派号公称 初め師、智山化主佐々木教正、醍醐寺座主金剛教正の懇嘱に依りて、智積院に大学林を置き、以って京都本山寺院を併合して、皆新義の教相に就かしめんと欲し、乃ち仁和寺冷泉照道教正及大覚寺執事村岡融仙等と謀り、各山末寺を率いて独立せしは、実に明治十一年なり。是に於て冷泉教正を推して西部管長と為し、以って其方圖を進捗せんとす。然るに其の後末寺交渉紛紜軋轢遂に十二年を以って内務省の発令あり。一宗三管長を廃するに至り、一転して東京本末会議となり、新古派号を撤し、一味制度を設くるに至る。是れ全く俗吏が徒らに統一の美名に迷い、奸緇乗じて新古を併せんとするの結果にして時よりその後各本山衰退益々甚だしく、智山は其尤たり。然れども而も一人の奮起して時艱を救わんとする者無し。師が一身を犠牲にするの精神は、一層の奮励を加え、同志を激励し此れに新古分離、別派独立を賛画し、主として成田山主三池照鳳、平間寺佐伯隆基深瀬隆健二師と盟約し、先ず各山承認書及末派連印を得、分派願書を法務所に出し、強請要願、数回に至れども、本所の役員沮んで通ぜず。師更に化主を奉し、東上内務省に哀訴歎願するに、亦一味派の妨げる所と為る。然れども師の心は石の転ずべきが如きには非ず。百折 撓まず、千挫屈せず。遂に智豊両山の一致と為り、進んで一宗大会議と為りしも、不幸一味党の多数なると、豊山の一部応援せるあり。加うるに高志・吉堀両課長の英断無きより、分離は遂に否決となれり。師は此れに於て、智山門末を率いて独立せんとなせしも亦豊山及び我当路者の首肯せざるあり。竟に派号公称なる変通の一法を提出し、激烈の討論を経、師が満腔の熱血、輿論を聳動し、勝を議場に制し、派号公称の事確立し、新古分離の事実を終古に判定せしは、一に師が護法扶宗の夙願に原づき、二十年百錬千磨を経たる鉄心石腸を以って苦戦奮闘、尺進ありて寸退なきの致す所、若し当時に於て師一人無かりせば、智山の現状果して如何あるべき、一派の末徒感戴せずして可ならん哉。 其三 三山盟約及離加末 成田山、大師河原、高尾山三名刹通じて関左三山と称す。三山鼎峙左提右持、以って本山を保護し一派を興復する者は実に師の慧眼と精力との致す所。三山の住侶、往古より智山の学籍なれども平間、高尾は酉山末、成田は峨山末に属し、気脈相通せず、明治十五年に至り師高尾山の副住と為り、早く此れに察する所あり、当に成田山三池師平間寺深瀬師の間に往来し曲さに将来の趨勢を語り、三山相約して法類と為り、規約を締結し便宜相助け緩急相応ずることとし、一旦契合終始渝らす。而して本山復興に関する大小供給離加末より派号復興に至る迄、三山盟約の効多きに居る、皆師が丹衷亦誠に発する遠 算深機の結果に非ざる莫し。而して平間寺隆基和上は夙に師の徳量才識を敬愛し、遂に師を法嗣と為すに至り、新勝寺三池師も亦師と莫逆の交わり管鮑も啻ならず。己の多病なるを以って、師を後董に推し、檀徒総代と平間寺に懇請するに至る、以って師の衷誠の人を感動する、決して権謀術数の流亜に非らざることを知るに足る。古の名緇 碩徳と雖も、豈能く之に加えんや。
本宗制度元来寺院に派号無く、人格に之を存す。故に京都各山新に非ず古に非ず、其門末両派に亙るものあり、蓋し本末は法流事相上の関係を約し、派号は能住人体の学脈を約するなり。故に新義派に属する寺院甚だ多けれども、其末寺は僅少なり。明治中興の初、政府誤まりて宗教に干渉し、俗吏本末権義を誤認し奸緇頑乗じて其私を謀り、一宗騒擾、底止する所を知らず。加えるに京都門跡の寺院も年月の久しき自然に皇族華冑の系統廃絶し、古義派より入りて新義派の住職となれるものあり。権力を以って末寺を壓せんと欲す。元来新義派は醍醐末最も多く仁和勧随峨山亦多少を有し、互相之を争う。師夙に分離加末の必要を観破し、陰に陽に拮据経営す。本山の要路は未だ多く賛成するに至らざるも、師は全力を捧げ、縦横馳騁し首として峨山大覚寺より成田山新勝寺を転末せしめたるは、実に明治十四年なりし。大覚寺執事村岡融仙、智山執事成田照玄、副住三池照鳳等と審議し百方故障を排斥し之が成功を見るに至りたるは智山復興派号公称を成就するの根礎と謂う可く、平間寺薬王院を醍醐より転末せしめたると共に、偉業を策するの前提と謂う可く、後来三千余寺の加末皆此れに原づくなり。その後酉山当局の中、本派公称寺院を挙げて譲与するの談あり。師、浜田法尊と議し更に豊山化主高志僧正、執事高城義海等大いに之を賛成し、両山協力之を成功せしめんとす。然るに該山寺務長上野相憲其の他同臭頑として応ぜず。交渉数回、聴かざるを以って英断に出て智山独立を以って離転加末を決行したり。是に於て豊山の有志と称する者大いに怒り、妨害百出、法務所亦彼に内応し反対する者あり。或は内務省に出願し、或は長者の副署を拒む等、事態困難を極む。而も師勇奮猛進、千艱万楚毫も挫折せず。一千百余宇の転末、予期の如く行われ、反対者志願成らず。亦我が嘉模に倣い、加末を求めるに至り、又千数百寺を得、派内帖然無事に帰す、設し師の一身を以って闔山の存亡に任するにあるに非ずんば、安んそ本山の三千末寺を統括し法灯を悠久に掲明する今日の若きを得んや。