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大僧正隆範師略伝

第四 伽藍興隆 其一 海住山寺 師夙に洛南海住山寺に住せしが、明治中興廃佛毀釈の説盛んに、寺院の安危、朝夕を測らず。加ふるに海峰末寺各方に散在し、殆ど維持を難んす。師深く時勢に鑑み、分かれて共に倒るるより、合して一を存するの得策たるを察し、悉く末寺を併せんとせしも、僧俗皆故常に慣れ、非常の見を賛くる者なく物議百出、村民肯んせす。然るに師断々乎として之を排し、遂に併合を決行し、一村一寺の制を定む。是に於て海峯の根礎確定を得、洛南名刹終古其観を改めざるに至る。卓識鋭断の効偉なる哉。明治九年始めて伽藍修理の功を起こし、庭園樹石の配置に至る迄、十四年に至りて全く其の工を竣ふ。 次いで本堂再建に着手し、十七年の春を以って竣を告く、乃乞本山より、松平化主及び前三宝院住職金剛、北越乙宝寺住職瑜伽、三教正並びに近傍諸県の龍象数十名を屈請し、入佛供養庭儀大曼供を修め、兼ねて宗祖弘法大師一千五十回忌の法楽を備え、又兼ねて結縁灌頂を行い、幾甸の男女甘露の瓶水に沐するもの幾千人なるを知らす、誠に海峯振古未有の盛事なりと云う。 其二 高尾山 高尾山薬王院は行基草創の霊境、俊源中興の名藍にして、関東十一談林の随一と称す。師の此に転住せしは、明治十九年に在り。是歳山主秀融闍梨開壇の為め京都に往き本山に登り其未だ帰らざる。暴雨の為め、山崩れて本堂を壓し、堂宇潰滅す、秀融闍梨遂に退穏を請い、山に帰らずして其の後を師に託す。師苦心焦慮誓って旧観を復せんと欲し、孜々として之れか方法を講す。乃ち二十一年を以って、大開帳を東京に執行し漸く講社の衰微を回復し、信徒賽客年を逐ふて増加す。師便宜土木を蒐輯し殿堂の材料概ね集る。本山の劇務と宿痾 の沈綿との為めに、未だ再建輪奐の美を目撃するに至らざるも、後年法弟照林師の遂に復興の業を完成せしもの、実に師の遺構と予算とを継承せるものと謂う可く、闔院永く其慶に頼るは言うを俟たず。師も亦以って瞑するを得可し。 其三 本山 師か終始本山の為に尽瘁し積んで病を成すに至れるは筆紙の尽す所に非ず。弘現化主の時より、大厦の将さに覆らんとするを支え、一而は経済を支持し、一而は教学を経営し、明治十四年に護法会を組織し、率先護持の任に当り、十七年に分離別派を企て、十八年に派号公称を確定し、十九年両山学林を輦下に併合し、首唱となりて根嶺の祖廟を修め派祖の恩忌追恩の典を挙げ、又評議員会を設け、内外法政に参せしめ、遂に二十六年を以って、平間寺前住隆基大和尚を懇請し本山の衰廃を修復し、洛東の壮観を悠久に伝え盛んに末徒を集め、両大会を執行し勧学会を起こし仁王會を行い、桓武天皇遷都一千百年大祭を本山に修むる等、皆一代の盛典なり。要するに皆師が本山興隆を謀るの方圖に非ざる無し。規模宏遠にして思慮周到なりと謂う可きなり。