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海住山寺の五重塔について その一

 海住山寺は天平七年(735)聖武天皇が開創した観音寺に始まると伝えられていますが、史料によって明らかにされるのは、鎌倉時代の初めに解脱房貞慶が笠置寺から移り住んで以来のことです。貞慶は南都興福寺にあって学僧として知られていましたが、当時の仏教界の世俗的な状況を嫌って建久四年(1193)興福寺を出て笠置寺へ隠棲し、その後承元二年(1208)に海住山寺に移りました。標高200メートルほどの山中にある海住山寺は都から離れた山地寺院であり、戒律を重んじる貞慶にとってふさわしい地であったのでしょう。
 承元二年九月九日の貞慶自筆の『仏舎利安置状』によると、交野新御堂で後鳥羽上皇から拝領した仏舎利二粒を海住山寺に安置する、とあります。貞慶は五年後の建暦三年二月三日に示寂しましたが、翌建保二年弟子の慈心房覚真が師の一周忌にあたり、先の仏舎利二粒に五粒を加えて五重宝塔に安置したとの文書が残されています。この五重塔が現在の五重塔で、おそらく貞慶が後鳥羽上皇から拝領した仏舎利を奉安するために建立を計画したものの、完成をまたずに示寂したものと思われます。五重塔の建立に要する期間は、現存例や記録からみると二年から五年位いが多いようですから、年数上はほぼ合うことになります。
 五重や三重のいわゆる多重塔は、飛鳥時代に中国から朝鮮半島を経て寺院建築と共に伝えられたもので、はじめは金堂とあわせて寺院で最も重要な建物として伽藍の中枢に置かれました。推古天皇四年(596)に完成した日本最初の本格的寺院法興寺(飛鳥寺)の塔(五重塔か)は伽藍の中心にあって、その心礎に百済から献上された仏舎利が奉安されました。仏舎利は釈迦の遺骨とされ、法隆寺や四天王寺を建立した聖徳太子は「仏舎利を塔に奉安することにより国は自ら厳清になる」と書き残しています。時代が下り奈良時代以降になると、伽藍における塔の地位はやや低下して象徴的な建物とみられ、中枢から離れた場所に置かれるようになります。仏舎利は心礎、心柱あるいは相輪に奉安されるものの形式化し、初重に安置される仏像などの方が重視されることになります。
 海住山寺では、東向きに建てられた本堂の前方南側に五重塔が置かれ、奈良時代以来の大寺院に多い伽藍配置を簡略化した、中規模寺院の一般的な配置をとっています。ただし、南側にあるため五重塔は麓の木津川のあたりからも望見することができ、寺院の存在を示す象徴的な役割を果たしているともいえます。
 海住山寺五重塔は心柱が初重の天井上から立てられていて心礎はありません。初重の内部では四天柱内の須弥壇の上に四方とも扉構えが設けられ、あたかも大きな厨子のように造られています。本尊としては明治期には大日如来坐像が安置されていましたが、江戸時代の地誌『山州名跡志』(正徳元年・1711刊)には「本尊安舎利」とあって、初重の須弥壇に仏舎利が安置されていたことがうかがわれ、おそらく工芸品的な舎利塔に納めて安置されていたのでしょう。扉内部全面に仏画や装飾文様が極彩色で描かれているのも、仏舎利を荘厳するためと思われます。
 このような初重内部の厨子状の造りは現存する塔には他に例がありませんし、仏舎利そのものを塔の本尊として祀った例もありません。これは、仏舎利を釈迦そのものとして信仰する貞慶の考えを表しているのではないかと思います。現存する五重塔では室生寺五重塔(奈良時代末)に次いで小さいことも、仏像を安置しないためであるのかもしれません。
 ところで、塔の心柱は仏舎利に直接関係するものとしてきわめて重要な意味をもっていて、はじめは地中あるいは地上の心礎から立てられていましたが、平安時代も末になると三重塔では初重天井上から立てられて初重内部には見られなくなります。貴族の日記『吉記』の承安四年(1174)の記事によりますと、その頃五重塔では初重に心柱があり三重塔では無いのが通例であって、それは安置する本尊が異なり三重塔では五仏を祀って中尊を中心に安置することによる、といっています。
 五重塔としては海住山寺五重塔が心柱を初重天井上に立てた最初の現存例であり、以後は心礎上に立てるものと天井上に立てるものとがほぼ半々になります。海住山寺五重塔の場合は、規模が小さいため内部を広く使えるように心柱を天井上に立てたのではなく、仏舎利を納めた舎利塔を中心に安置して四方どこからも礼拝できるようにするためであったと考えられます。
 このように、海住山寺五重塔は貞慶示寂後に完成したものですが、貞慶の塔を建てる意図が明確に表われていると思います。


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