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海住山寺五重塔の解体修理|濱島 正士(公益財団法人 文化財建造物保存技術協会理事長)

 海住山寺五重塔の解体修理工事は、京都府が海住山寺から委託を受けて昭和36年1月に始まりました。工事に先立ち、まず五重塔の修理前の現状写真を撮り、部材の一つ一つに番付を記した小さい木札を打付けます。これは解体したあと、どこの部材であったのか位置が分かるようにするためで、破損の程度によって補修したり新材と取替えたりしたあとも元の位置を変えないのが原則です。
 これと併行して、仮設工事にかかります。工事事務所や職工休憩所、工作小屋などのほか、五重塔をすっぽり覆う素屋根を建てます。近年の文化財建造物修理では、単管あるいは鉄骨を使って素屋根を建てますが、当時は杉丸太を鉄線で縛って組上げ、屋根には波形鉄板を張り、周囲は葦簀で囲むものでした。当時は麓の仏生寺地区から寺へ上がるのに、車道が無く尾根筋の小径を歩いて上りましたから、工事用の資材の運搬が大事でした。山仕事をする牛方に頼んで上げましたが、長い杉丸太を大八車に積んで牛に牽かせて九十九折れの山道を上がるのは、山に慣れた大きな牛でも大変だったようです。仮設工事が終わって、4月17日に起工式を行いました。
 塔の解体にかかる前に、修理前の状況が把握できるように、各部の実測、納まりや破損程度の調査、写真撮影を行います。これらが一通り済んだところで、いよいよ解体です。まず、屋根上の相輪を上から順次心柱から抜き取ります。相輪は青銅製で多くの部材から組立てられており、一つ一つ心柱に差し通されています。ついで、五重から順次屋根の瓦を降ろして葺土を取除き、野地を外して小屋組を解体し、軒も飛檐まで取り外します。
 五重や三重の塔は、基本的には各重ごとに積み重ねられていて、初重の軸部・組物・軒を組立ててから、地軒の上に柱盤を置いて二重の柱を立て、以後同じことを繰返して建て上げます(飛檐軒は上重の積上げには関係しないので後からでも取付けられます)。解体はこれとは逆の順序で行うことになりますから、飛檐軒を外したあとは五重から地軒・組物・軸部と解体していきます。解体した部材は基本的には再度使う(再用)わけですから、接合部(仕口や組手・継手)を傷めないよう手作業で丁寧に取外し、整理して保管します。解体中にも、外からは見えなかった部分の実測・調査・写真撮影を行います。建立後750年も経っているので、途中で何回も修理され、部材が取り替えられたり位置を移動されたり、別の用途に使われたり(転用)、形式や工法が変更されたりした部材もあります。それらの調査も解体中に行いますので期日がかかり、5月13日に解体を始めて終ったのは8月22日でした。
 ところで、本塔では初重四天柱内一面に装飾文様や仏画が極彩色で描かれ、保存状態もよく、鎌倉初期の貴重な作品として知られていました。文化庁(当時は文化財保護委員会事務局)では以前から古い建築の装飾文様の模写を継続して行っていて、本塔についても修理工事を機に模写を実施することになりました。模写の制作は、のちに建造物彩色の選定保存技術保持者(文化庁認定)となられた山崎昭二郎さんが文化庁から委託を受けてやっておられ、本塔にも2週間ばかり泊まり掛けで来られました。夏の暑い頃でして、大きな身体を小さくして狭い四天柱内に入り込み、汗をかきながら苦労して引き写し(薄美濃紙に文様を写し取る)や技法の調査をされていた姿を今も想い出します。
 本塔の工事には京都府教育庁文化財保護課から主任として佃さん(4月以降)、助手として先任の浦出さんと私が派遣されて修理の設計・工事指導にあたり、月に1,2回工事監督として大森さんが来られました。現場では大工棟梁の人見さんをはじめ数人の大工と人夫が常傭の形で従事していました。解体修理が本格化した頃だったかと思いますが、もう一人松浦昭次さんという若い大工が加わりました。若いだけに元気が良く、年長の大工さんと時には衝突することもありましたが熱心な人でした。松浦さんはその後全国各地で文化財修理に携わり、建造物木工の選定保存技術保持者となられ、現在もご健在です。これら工事関係者のうち、佃さん、私、人見さんと松浦さんは現場に泊り込んでの仕事でした。佃さんは奥の院に仏様と一緒に、私は事務所の宿直室に寝起きして各自自炊をしていました。主任の佃さんは文化財修理の事務や経理にとくに堪能な方で、面倒な書類作成や各種業者の選定、来客の対応などをすべて引き受けて下さり、浦出さんと私は現場の仕事や図面作成に専念することができました。
 寺の方では、先々代の範能師がお元気で住職をなさっており、奥様と先代の貞明師と3人で暮らしておられました。貞明師は工事が始まった頃はまだ独身で元気にあふれ、寺蔵文書などの調査・研究をされており、工事現場にもよく来られました。車が上らない山中の寺でしたから、日頃は参詣者も稀で、工事の槌音だけが静けさを破るといった環境でした。
 解体工事が終わり後片付が済むと、つぎは基礎工事です。礎石の状況を調べてみると、不同沈下が大きく東南隅から西北隅にかけて沈下していて、その高低差が9pありました。そこで、基礎を据え直すこととして9月4日に地鎮祭を行い、礎石の掘り起こしにかかり、あわせて基礎地形や基壇の状況の調査を始めました。
 基礎の調査がどの程度進んでいたのか正確なことは憶えていませんが、9月16日近畿地方は猛烈な台風第二室戸に襲われました。各地に大きな被害が出ましたが、本工事でも素屋根を吹き飛ばされる不測の事態となりました。勤務中の昼間でしたが、次第に募ってくる風に仕事を止めて大工さん達も全員事務所に集まり見守っていたところ、下から吹き上げる風に弓なりに反って耐えていた素屋根が足元を掬われたように倒壊してしまいました。屋根下の四隅からワイヤーを張っていましたが、それを止めていた杭が引き抜かれ、屋根の鉄板は遠くまで飛ばされたものもありました。山中の現場でしたから他に被害が及ばなかったのは幸いでしたし、各重の足代や棚に置いた部材も工作小屋に移していたので、塔自体が損傷することはありませんでした。何よりも有難かったのは、初重四天柱回りもすべて解体して部材を本堂に格納していたことです。はじめは、彩色が剥落するおそれがあることから解体せずに残したのですが、礎石を据え直すために解体したのでした。


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