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海住山寺五重塔の解体修理|濱島 正士(公益財団法人 文化財建造物保存技術協会理事長)

 第二室戸台風で倒壊した素屋根の後片付を済ませて直ちに再建にかかり、36年10月12日には2度目の素屋根が出来上がりました。これと併行して基礎の発掘調査を進めたところ、地形は江戸時代の寛文11年(1671)修理時に全部築き直されており、さらにその後に南側の崖に沿って大きな亀裂の入っていることが分かりました。そうした状況からみて、将来も地盤の亀裂が進行することが予想されたため、基礎を据え直すだけでなく全面的に地形(地業)から造り替えることになりました。そして十分な安全性を確保するために、基壇の下にRC造の床版を打ち、その上に地中梁を造って礎石を据えるという、思い切った方策をとりました。
 南山城とはいえ山中のことですから、寒くなるとコンクリートの凍害が心配されるので、冬が来る前にコンクリートの打設を終えることになりました。問題はセメント、砂利・砂、鉄筋の大量の資材の運搬です。仮設材を運び上げてくれた2組の牛方に頼んでみましたが、山仕事が忙しくて当分は駄目とのことでした。そこで皆で考えた末に、麓の仏生寺地区の農家の人達に小型耕運機を使って上げてもらうことにしました。これなら長物の鉄筋以外は問題ありません。こうして、RC造の基礎が冬が来る前に無事打ち上がりました。この時ご協力頂いた地元の方々は、現在もご健在なのではないでしょうか。
 文化財建造物の修理では、解体が終ってから改めて各部各材の破損状況や改変個所などの調査を行い、実施計画を立てます。旧材は可能な限り再用し、改変個所は建立当初の状態に復原するのが原則です。復原するには当初の形状が分かる資料を整えなければなりません。本塔の場合は、初重の軒の出がとくに大きい点が問題視されていましたが、解体調査の結果、初重の面を取った飛檐垂木に合致する隅木(軒の四隅で45度方向に出る材)が発見され、初重の大面取りの縁束は柱を切り使いしたもので、それらと一連の材であることが分かりました。しかし、これら一連の面取り材がどこに使われていたのか、あるいは他の建物の部材を転用したものなのか不明でした。その時転用されていた旧初重の台輪(柱天にのる横材)に面取り垂木を止めた釘穴が見付かったことから、もとは初重に裳階が付設されていたことが判明したのでした。このことを最初に言い出したのは棟梁の人見さんで、永年文化財建造物の修理を手掛け、寺社の新築にも携わってきた経験が物を言ったわけです。裳階の取付き方としては異例ですが、発見された一連の旧材の解決も付き、裳階を取り払った時にその垂木を転用して初重の軒の出を大きくしたことが分かりました。ただし、組物など見付からない部材もあったので、それらは類例を調査して参考とし、形式や寸法を決めることにしました。
 裳階が取り払われたあと、初重は側回りの軸部が江戸時代初めに2度(明暦3年、寛文11年)にわたって新しくされていましたが、初重柱の旧材(明暦材)が短く切って二重以上の柱に転用されていたことから、初重の旧状も明らかになりました。これらの調査・検討にはかなりの期日を要し、復原図を描いて文化庁から復原(現状変更)の許可を得たのは翌37年の3月のことでした。裳階と初重などの復原のための新材の購入と加工手間が増え、素屋根の再建などもあって、改めて実施設計を行った結果、総工事費が増え(11,300千円→17,795千円)、工事期間も延長(24ヵ月→27ヵ月)することとなりました。
 基礎工事と併行して古材の繕い、新材の購入・加工を進め、37年7月から組立工事に入り、7月24日に初重の柱立てを行いました。組立は解体とは逆の順序で進め、8月30日二重柱立て、9月21日に三重柱立て、10月15日四重柱立て、11月6日には五重の柱立てを行いました。37年は幸い台風の襲来もなく、工事は順調に進みました。とはいえ、旧材の間に一部新材が入るのでその取り合わせに手間が掛かりますし、軸部の高さはもちろんのこと組物も一段ごとに高さを揃え、水平方向の歪も矯正しながら組上げていきます。軒は隅木・垂木・木負・茅負の出と反り上がりを四面合わせながら取り付けていきます。こうして初重から五重まで軸部・組物・地軒を組上げ、飛檐軒を取付けて小屋組・野地を造り、翌38年2月11日に上棟式を迎えました。塔に棟木はありませんが、相輪最下部の露盤をのせる枠組の取付けを棟上げにあてるのが普通です。つづいて、土居葺・瓦葺へと進み、扉や縁など雑作を付け、補修して金箔を張った相輪を取付け、3月には素屋根を取り払って新装成った五重塔が姿を現わしました。
 ところで、本工事は山中の現場で何人も泊り込んでいたこともあって、皆が集まって酒宴を開くこともしばしばでした。春の花見、暑気払い、紅葉狩り、雪見をはじめ工事の一段落が着いた時など、理由はいくつもありました。加茂町より奥の村から通ってくる人夫さんが2人いて、その1人は軍隊時代に習い憶えた料理が得意で、朝材料を仕入れて来て午後には仕度に掛かり、5時過ぎに宴を始めるのが常でした。とくに「おでん」は逸品で、文化庁の高名な担当官が見えた時にもご披露したところ大変好評でした。主任の佃さんはお酒が好きで、陽気に歌ったり踊ったりされましたが、いくらお酒を飲まれても、最後の火の始末は必ずご自分でされました。やはり、文化財の保存修理を永年経験された方は違うのだと感心したものでした。  いつ頃だったのかは忘れましたが、お寺では塔の工事中に貞明師が結婚されました。当時、海住山寺周辺は猪が出没し、僅かなサツマイモ畑を荒したりしていました。猟師が射ち取った猪を担いで山を降りてくるのを見たこともあります。またある時、お寺の庫裏に夜な夜な狸が現われるということを聞き、それを捕まえようと大工さんが罠を仕掛けました。すぐに捕まったのを見て、狸ではなく穴熊だろうとかなんとか言ってましたが、急造の檻に入れて暫く飼っていたところ、金網を破って逃げてしまいました。今でも、猪や狸はいるのでしょうか。
 本塔は鎌倉時代初めに建てられた五重塔としては唯一の遺例であり、解体調査によって建立時の技法を明らかにすることができました。平面寸法と組物・垂木の割り付けとの関係、鉄製大釘を使った軸部の仕口、軸部の隅延びと組物の工作など五重塔に限らず当時の寺社建築に関する貴重な資料を提供してくれたのです。
 私個人としても、文化財建造物の保存修理技術者としての基本を身に付け、仏塔研究のきっかけとなった、思い出深い工事でした。仕事だけでなく、山中での2年余の生活は自然の季節の移ろいを肌で感じることが出来る貴重な体験でもありました。


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